紀元前206年、項羽は、王になろうとして、秦を滅ぼすことに功績のあった、諸将を王侯に任じた。

 十八王封建である。

 九江王の英布、雍王の章邯、塞王及び、殷王の司馬欣、翟王の董翳、西魏王の魏豹、河南王の申陽、韓王の韓成、常山王の張耳、代王の趙歇、衡山王の呉芮及び、臨江王の共敖、燕王の臧荼、遼東王の韓広、膠東王の田市、斉王の田都、済北王の田安、そして、漢中王の劉邦の十八人の王である。

 前述の通り、英布は、刑罰を受けて、刺青を入れられており、黥布と呼ばれることがある。

 英布は、陳勝・呉広の乱の発生後、仲間と共に挙兵し、秦の番陽県令の呉芮と連携すると、その娘を妻とした。

 陳勝の敗死後、陳勝の将の呂臣と協力して、秦の章邯の別働隊を破った。

 英布は、その後、楚軍の項梁に帰属して、当陽君と名乗ることを許される。

 更に、留にて、秦への叛乱を起こしていた、秦嘉、甯君が、楚の公族の景駒楚を楚王として、擁立したため、項梁の命で、項羽の副将として討伐した。

 項梁が、定陶において、秦の章邯の襲撃を受けて、戦死後は、英布は、項羽に仕え、項羽の下で、先鋒として活躍した。

 英布は、鉅鹿の戦い、函谷関の攻略等、楚の冠軍として、勇名を成した。

 英布は、項羽の命令によって、楚軍に降伏した、秦兵20万人を殺害している。

 章邯及び、司馬欣、董翳は、秦の将軍で、陳勝・呉広の乱にて、叛乱軍の鎮圧に活躍し、項羽の叔父、項梁を敗死させた。

 司馬欣と董翳は、秦の将軍の章邯の副将である。

 章邯は、司馬欣及び、董翳の二人の副将に説得され、項羽に降伏した。

 その際、秦の兵士、20万人を生き埋めにした。

 魏豹は、魏の公族で、陳勝・呉広の乱の発生後には、魏咎と共に挙兵して、魏咎が、陳勝の武将、周巿に擁立されて、魏王になると魏咎に仕えた。

 魏豹は、魏咎の弟、または、従兄弟とされているため、魏咎に最も近い人物であった。

 秦の将の章邯によって、魏咎が、焼身自殺すると、魏豹は、楚の項梁を頼って逃亡した。

 そして、懐王に数千の兵を借り、魏の20余城を攻め落とした。

 魏豹は、秦の章邯が、項羽に降伏した報を聞くと、自身が、魏王と称した。

 紀元前206年に、項羽が、秦を滅ぼすと、魏豹は、領土を削り取られて、西魏王とされたのである。

 申陽は、陳勝の武将で、趙王を自称した、武臣の配下で、瑕丘侯に封じられた。

 その後、武臣が、配下の李良に弑されると、申陽は、張耳の配下となり、重用された。

 紀元前207年、申陽は、張耳の命令によって、河南地方を占領すると、項羽の率いる、楚の軍勢を出迎えた。

 その後、申陽は、項羽に従った、張耳に同伴し、秦の咸陽に向かった。

 紀元前206年、項羽が、秦を滅ぼすと、申陽は、河南地方を中止とする、河南王となった。

 前述の通り、韓成は、韓の公族の生まれである。

 陳勝の敗死後、張良は、楚の項梁に進言し、韓成を韓王に擁立した。

 韓成は、項羽の十八王封建の際には、改めて、韓王に封じられた。

 しかし、項羽は、韓成を擁立した、張良が、劉邦に接近していることを不快に思った。

 項羽の軍師の范増は、項羽に韓成を監禁すべきと進言したため、韓成は、項羽が、彭城に凱旋すると、彭城に監禁され、韓に戻ることはなかったとされる。

 張耳については、既に、本項にて、度々、述べている。

 張耳は、諸侯と共に咸陽に攻め入った。

 秦の滅亡後、項羽は、諸侯を対象にして、大規模な論功行賞を行った。