フランスのロシア駐在大使、コランクールは、タレーランの意見に同調し、協力して、戦争回避に動いていた。

 コランクールは、1811年6月パリに召喚されると、タレーランの意見に基づいて、ロシアとの交渉に入る様に、ナポレオンに進言したのである。

 1811年6月11日、コランクールは、ロシア駐在大使の任務をローリストンに引き継ぎ、パリに帰還した。

 コランクールは、長年のロシア駐在大使としての経験によって、ロシアの国土の広さと、アレクサンドル1世の性格を知り抜いていた。

 そのため、ナポレオンに、ロシアとの戦争では、決定的勝利は、不可能であることを説いた。

 ナポレオンは、緒戦において、ロシア軍に勝利すれば、アレクサンドル1世は、和平を求めて来ると主張した。

 しかし、コランクールは、アレクサンドル1世は、頑固なために、戦争を継続すると説いた。

 同時に、ロシアの領土は、奥深いため、フランス軍の侵攻は、戦線を際限なく、拡大させ、冬の寒さと補給の困難の危機に直面すると説いたのである。

 実際、翌年のロシア戦役では、コランクールの予測通り、ロシア領の奥深さによって、戦線は、拡大の一途を辿り、冬の寒さ、補給の困難で、フランス軍は、崩壊した。

 そして、その129年後の1941年、ドイツのヒトラーは、ソビエト連邦の旧ロシア領に侵攻するが、同様に、ソ連の領土の奥深さに敗北することになる。

 ナポレオンは、この時には、コランクールの意見を採用し、タレーランの提案である、ポーランドに対する、ロシアの影響を認めることにした。

 ナポレオンは、ロシアとの和平の提案者のタレーランをトリアノン宮殿に呼び、話し合うと、タレーランの提案内容で、ロシアとの交渉を始めることに同意した。

 その結果、1811年の秋には、タレーランの意向を受けた、ネッセルローデが、ロシアのアレクサンドル1世の許に帰国し、ロシア皇帝に対し、ナポレオンの交渉を開始するように勧めることになったのである。

 ナポレオンは、1811年の夏のタレーランとの話し合いの最後で、タレーランに向かって、「貴公は、質の悪い男だ。

 私は、貴公に政治のことを相談しないわけにはいなない。

 また、貴公を愛するのを辞めることもできないのだから」。

 ナポレオンは、その二年前に罵倒した、タレーランの政治的才能を認めざるを得なかったのである。

 ナポレオンは、タレーランに矛盾した、思いを抱えていた。

 タレーランは、不誠実及び、不道徳な、唾棄すべき人間であると、ナポレオンは、考えていた。

 同時に、タレーランは、有能な人材であり、未来を見越した、提言の可能な人材は、存在しないと痛感していた。

 1819年9月、ヨーロッパでは、金融危機が、発生し、大規模な銀行、商社等の倒産が、相次ぐ、経済危機に陥っていた。

 タレーランは、金融危機の影響によって、財産を失い、財政状態が、悪化し、事実上、破産状態であった。

 ナポレオンは、贅沢の限りを尽くした、外交接待用に改築した、オテル・ド・モナコの邸宅を、128万フランの破格の金額で、タレーランから、購入し、破産の危機から、救った。

 ナポレオンは、タレーランの頭脳を必要とし、再度、外交の表舞台に立つことになる。