オルデンブルクは、ドイツの領邦国家の一つで、デンマーク王家のオルデンブルク朝を輩出している。

 その後、1667年~1773年の間には、デンマーク王国の支配下に入った。

 1773年、デンマーク王、クリスチャン7世は、ロシア皇帝、ピョートル3世の息子である、パーヴェル1世にオルデンブルク伯領を割譲した。

 パーヴェル1世は、オルデンブルク家の分家、ホルシュタイン=ゴットルプ家の出身の大叔父、リューベック司教侯、フリードリヒ・アウグスト1世をオルデンブルク伯とした。

 1777年に陞爵が行われ、オルデンブルク公国となった。

 フリードリヒ・アウグスト1世が、1785年に死去すると、息子のヴィルヘルムが、オルデンブルク公国を継承した。

 しかし、ヴィルヘルムは、精神疾患であったため、フリードリヒ・アウグスト1世の弟、ゲオルク・ルートヴィヒの息子、即ち、ヴィルヘルムの従兄弟のペーターが、摂政となり、事実上、オルテンブルク公国を支配した。

 しかし、ペーターは、1823年、ヴィルヘルムが、死去するまで、従兄弟に配慮し、オルテンブルク公を名乗らなかったのである。

 ペーターの妻、フリーデリケは、アレクサンドル1世の母、マリア・フョードロヴナの妹であった。

 即ち、ペーターは、アレクサンドル1世の母の甥の夫の関係である。

 1806年、オルデンブルク公国は、フランス軍によって占領され、ペーターは、ナポレオンの開いた、エルフルト会議に出席することを余儀なくされた。

 1808年、ペーターは、オルデンブルク公国は、ライン同盟に加盟させた。

 ペーターは、ロシア皇帝の縁戚であったが、ナポレオンに譲歩を重ねていた。

 しかし、ナポレオンは、遂にオルテンブルク公国をフランス帝国に併合したのである。

 ペーターは、代償として、エルフルト侯領を与えられたが、拒絶し、家族と共にロシアに亡命した。

 ナポレオンは、1811年2月11日、アレクサンドル1世の全ての疑念を晴らすために、書簡を送っている。

 4月17日、ロシアとの交渉の見通しを立てられない、無能な外務大臣のシャンパニーを更迭し、マレ将軍を後任の外務大臣とした。

 アレクサンドル1世は、ナポレオンのオルデンブルク公国併合は、前年の12月31日の皇帝勅令の報復と考えた。

 ナポレオンとアレクサンドル1世の二人の皇帝の関係は、急激に緊張状態に高まり、フランス帝国とロシア帝国は、一触即発の状態に入った。

 この時に、二人の皇帝を仲介し、戦争を回避させたのが、タレーランである。

 タレーランは、アレクサンドル1世に対して、ナポレオンが、戦闘準備に入ったため、既に、フランスを奇襲する、機会は失われており、先制攻撃を取りやめるように説いた。

 そして、オスマン・トルコ及び、オーストリアとの和平努力によって、ナポレオンに対し、対抗すべきと提案し、アレクサンドル1世は、タレーランの考えを採用した。

 ナポレオンは、外務大臣のシャンパニーの無能に憤り、再度、タレーランの意見に耳を傾けるようになった。

 タレーランは、ナポレオンが、ポーランド王国を再建せず、ロシアのポーランドへの影響力を認めれば、ロシアとの戦争は、回避できると説いたのである。

 即ち、ポーランドより、ロシアを重視すべきとの意見であった。