アレクサンドル1世は、外交官である、ネッセルローデをロシア大使館の参事官として、パリに派遣すると、タレーランと接触させた。

 タレーランは、エルフルトの協定の際に、ロシア皇帝の信頼を得ると、愛人のクールランド婦人を介して、アレクサンドル1世と、秘密裡に連絡を取っていたのである。

 クールランド婦人は、タレーランの甥の妻、ドロテー・ド・クールランドの母であり、ラトヴィアの大貴族で、アレクサンドル1世とは、親しかった。

 しかし、ネッセルローデのパリ赴任後は、直接、ネッセルローデ対し、ナポレオンの情報を与えるようになった。

 タレーランは、ナポレオンを知り抜いているため、その情報分析は、適格であった。

 タレーランは、ネッセルローデに対し、1810年後半の時点のナポレオンのロシア征服の意図について、情報を与えている。

 タレーランは、現時点では、ナポレオンは、半島戦争を終わらせるまでに、時間がかかるため、ロシアは、ナポレオンの征服に対し、一年間は、準備のために、全力で、集中できる態勢になっていると伝えた。

 そして、ロシアは、可能な限り、オスマン・トルコと和解し、オーストリアに接近して、同盟締結することにより、ナポレオンに平和を押し付け、ヨーロッパを救うべきであるとネッセルローデに語ったのである。

 タレーランは、ロシアとオーストリアの同盟による、力の均衡によって、ナポレオンの征服欲を抑制しようと考えていた。

 ロシア皇帝、アレクサンドル1世は、ネッセルローデから、タレーランの情報分析結果を受け取ると、ナポレオンが、西方の半島戦争に兵を割かれている間に、背後の東方から、先制攻撃することを、考慮に入れて、戦闘準備を整え始めた。

 10月30日の時点において、ロシア軍は、既に、30万人が、戦闘準備に入っていると見積もられていた。

 11月18日、スウェーデンは、ロシアに宣戦布告する。

 12月2日には、ロシアのスパイ、チェルニチェフが、スウェーデンの王太子、ベルナドットと接触した。

 ベルナドットは、チェルニチェフに、ロシアと良好な関係を望むことを打ち明けたのである。

 ナポレオンは、当初、ロシア軍の戦闘準備を知らなかった。

 しかし、ワルシャワ大公国のポニャトフスキー将軍から、ロシア軍の情報を受け取ると、不安に襲われた。

 そして、12月24日、ナポレオンは、12万人の徴集兵を招集したのである。

 その結果、半島戦争のマッセナ元帥の援軍要請に、応じることは、不可能になった。

 12月30日、アレクサンドル1世は、新しい、関税率を公布する、皇帝勅令を発した。

 皇帝勅令の結果、打撃を受けたのは、イギリスの商品ではなく、フランスの商品であった。

 ロシアの大貴族達は、大陸封鎖を行わないように、アレクサンドル1世に圧力を掛けた。

 彼等は、農産物をイギリスに輸出し、イギリスから、加工品を輸入していたのである。

 翌年の1811年1月10日、ナポレオンは、ポーランド軍に対する、ロシア皇帝の行動を警戒して、ダヴー元帥に情報の収集を命じた。

 そして、翌日の1月11日、ナポレオンは、エルフルト条約に違反し、アレクサンドル1世の母の甥である、ペーターの事実上の所領、オルデンブルク大公領をフランス帝国に併合したのである。