同年7月、秦に滅ぼされた、斉の最後の王、田建の弟の田假が、斉王として、擁立された。

 田儋の従兄弟、田栄は、田假の斉王擁立に激怒し、田假を攻めたため、前述の通り、田假は、楚に亡命した。

 田栄は、田儋の息子の田巿を斉王に擁立した。

 田巿が、王となると、田栄は、斉の宰相、田栄の弟の田横が将軍となり、斉の実権は、田栄が握って、斉の地を平定した。

 前述の通り、項梁は、楚に亡命した、田假を殺すことを拒否したため、斉の田栄は、援軍を送ることに同意しなかった。

 項梁は、兵を分けて、項羽及び、劉邦に城陽を攻めさせると、二人は、落城させた。

 項羽と劉邦は、西進して、濮陽の東で、秦軍を破る。

 秦軍が、濮陽に兵を入れたために、項羽と劉邦は、定陶を攻めた。

 同年8月、項羽と劉邦は、定陶を落城させないまま、西進して、雍丘で秦を大いに破った。

 更に、二人は、三川郡守の李由、即ち、李斯の長男を討ち取った。

 項羽と劉邦は、引き返し、外黄を攻めた。

 この時期の項羽と劉邦は、項梁の傘下の将として、共に戦功を挙げていた。

 後に項羽と劉邦の二人は、天下の覇権を争うことになる。

 項梁は、外黄が、落城しない内に、東阿から定陶に向かい、秦軍を破った。

 項梁は、勝利を重ねたため、秦軍を軽く見て、慢心するようになった。

 宋義は、「勝利のために将が驕り、兵卒が、怯惰になると敗れると言います。

 今、少々、兵卒が怯惰になっているようですが、秦の兵は日々増えています。

 私は、それを心配しています」と項梁を諌めた。

 しかし、項梁は、宋義の諫言を聞かなかった。

 宋義は、項梁の軍から、斉への使者として、離れる途中で、斉の使者として、訪れた、旧友の高陵君顕に出会った。

 宋義は、高陵君顕が、項梁の所に行く途中と聞くと、項梁は、必ず敗れるから、行かない方が、安全だと忠告した。

 同年9月、秦は、全兵力で、章邯を増援した。

 項梁は、定陶において、枚(ばい)を加えて、夜襲をかけてきた、章邯の率いる、秦軍に攻められて、敗死した。

 項羽と劉邦は、陳留を攻めていたが、項梁の戦死を聞き、兵士が、恐れていると判断し、戦いの続行を断念して、呂臣の軍と共に、東に引き返した。

 章邯は、名将の項梁を討ち取り、楚国は、恐れるに足りないと判断し、趙国を攻めた。

 項梁は、陳勝を遥かに上回る、軍事的才能を有していると同時に、天下の人望を集めた。

 項梁の死は、陳勝の死以上に、中華の歴史を変えた。

 項梁が、生きていれば、項梁は、楚の懐王を擁し、天下を統一していたと思われる。

 その場合、項梁の甥の項羽が、後継者になり、劉邦が、項羽と天下の覇権を争って、「漢」が、建国されることはなかったであろう。

 項羽は、彭城に帰り、楚の懐王は、彭城に遷都した。

 斉の使者の高陵君の顕は、楚の懐王に会見して、「宋義は、武信君の軍が、必ず敗れると論じていました。

 それから、数日して、果たして、武信君の軍は敗れました。

 兵が、まだ、戦っていない時に、あらかじめ、敗北の兆しを見抜いたことは、宋義は、軍略を理解している証と言えるでしょう」と語った。

 同年後9月、懐王は、宋義を召し、今後の事を図ると、宋義は、大いに今後の事を論じた。

 そのため、懐王は、宋義を上将軍に任じ、項羽を次将とし、范増を末将とした。

 また、英布、・蒲将軍達の諸将は、宋義に属させて、5万の軍を与えると、秦の章邯に攻撃を受けている、趙への援軍を命じた。

 宋義は、卿子冠軍と号した。