陳勝の死後、叛乱軍の主導者となったのは、楚の将軍、項燕の息子、項梁である。

 項氏は、代々楚の武将として、活躍し、「項」という、邑に封ぜられ、項姓の祖先となった。

 項燕は、紀元前225年、秦の将軍、李信が、20万の大軍を率いて、楚に進攻すると、項燕が、勝利を治めて、秦軍の殆ど全軍が、覆没させたのである。

 翌年、秦の将軍の王翦が、今度は、60万の大軍を率いて楚に進攻し、王翦は、堅守・不出の戦術を悟って、採用した。

 王翦は、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲し、楚軍を大破、楚王の負芻は、俘虜となったが、項燕は、淮水以南で、負芻の兄弟、楚の公子で、秦の臣下であった、昌平君を楚王として、擁立し、反抗した。

 紀元前223年、王翦は、楚軍を追撃し、昌平君と項燕とは、共に戦死したため、遂に楚は、滅亡した。

 秦王政による、中華統一戦争にて、秦軍に勝利したのは、趙の李牧、楚の項燕の二人のみであり、民衆に人気があった。

 陳勝と呉広が、秦に叛乱を起こした際、秦の扶蘇、楚の項燕を称したのは、民衆の支持を集めるためであった。

 項梁は、項燕の末子と言われ、楚の滅亡後、櫟陽に住んでいた。

 項梁は、ある罪に連座し、秦に捕らえられたが、蘄県の獄掾をしていた、曹咎に頼んで、櫟陽の獄掾である、司馬欣に手紙を送ってもらい、事なきを得た。

 後に項梁は、人を殺害して、仇持ちとなったために、復讐を逃れて、甥の項羽と共に江南地方の呉に逃れた。

 項梁は、呉の地において、人々の信望を集めて、秦の賦役に対する、人夫の割り当て及び、葬式を取り仕切るなど、顔役となった。

 また、同時に、後日を期して、密かに人材の見極めを行っていた。

 項梁には、兄弟の項白がおり、更に、項梁の甥には、項羽と項荘がいるが、二人は、兄弟ではなく、二人の父の名は、不明である。

 紀元前209年9月、始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が、勃発し、秦の支配が、動揺すると会稽郡守の殷通は、項梁を呼び出した。

 殷通は、「先んずれば、人を制すと言う。私も秦に対して、反乱を起こすことに決めた」と言って、桓楚という、有力者を探し出し、共に自分の旗下の将軍になる事を項梁に要請したのである。

 項梁は、殷通に対し、「桓楚の居場所は、甥の項羽しか知らない」と言い、項羽を郡庁舎に来させた。

 項羽は、殷通の前に出ると、殷通を斬殺し、項梁は、郡守の印を奪って、自身、会稽郡守となった。

 なお、桓楚は、豪傑として、有名であったが、秦の追求を逃れていた。

 桓楚は、項梁の挙兵後に、項梁の配下に加わっている。

 項梁は、以前から、人材を見極めており、主な役人を召して、大事を起こすことを伝えて、呉の地から、兵を挙げて、8,000人の精鋭を得た。

 その上で、項梁は、呉にいた、豪傑達を校尉・候・司馬に任じる。

 役に任じられない者が、不満に思い申し出たが、「貴方は、葬儀の時に与えた役割を果たせなかったため」と説明すると、皆、項梁に屈服した。

 項梁は、会稽郡守を名乗り、項羽を裨將(副将)に任命し、諸県を従えた。

 そして、翌年の紀元前208年、陳勝が、秦の章邯に敗北すると、逃走中に部下の荘賈に殺害される。

 同年、広陵にいた、召平は、呉に来て、陳勝の使いと偽り、項梁を楚の上柱国に任命して、項梁に出兵を促した。

 項梁は、8,000の精兵を率いて、出発した。