蔡賜は、河南郡上蔡県の住人で、房という、邑の爵位を持っていたため、房君と呼ばれた。

 紀元前209年7月、陳勝・呉広の乱が起こる。

 陳勝達は、陳城を制圧すると、陳勝は国号を張楚とし、王を名乗った。

 同年8月、陳勝は、国中の豪傑を招いて、共に謀議して、蔡賜を上柱国に任じた。

 蔡賜は、農民ではなく、高位の人物であったと考えられる。

 秦の章邯は、蔡賜を討伐後、陳の西方において、張楚の張賀と交戦すると、陳勝は、自身、張賀を援けようと出陣するが、敗北し、張賀は、戦死する。

 紀元前208年12月、陳勝は、遂に逃げ出して、汝陰へ、次いで、下城父へ到ったが、自身の御者である、荘賈に殺された。

 陳勝・呉広の叛乱は、わずか、6カ月で鎮圧されたのである。

 陳勝と呉広は、君主の器ではなく、瞬く間に敗北したが、中華を統一した、秦に対して、中華史上初の農民叛乱を引き起こした。

 更に、陳勝の死後、中華全土に広がった、叛乱は、収まることなく、秦を滅亡させることになる。

 陳勝は、秦への叛乱の口火を切った、偉大な功績を、叛乱の継承者及び、歴史に残したと言える。

 陳勝の死後、楚の公族出身の景駒が、秦嘉と甯君達によって、留にて、楚の仮王として、擁立された。

 景駒は、楚の平王の庶長子、子西の後裔である。

 また、秦嘉は、広陵の住人で、陳勝が、張楚の王を名乗ると即座に銍の住人、董緤、符離の住人の鶏石、取慮の住人の鄭布、徐の住人の丁疾達と共に、秦への反乱を決起した。

 秦嘉達は、兵を率いて、東海郡守の慶を郯にて、囲んだ。

 陳勝は、秦嘉達の挙兵を聞くと、武平君畔を将軍に任命して、覇権すると、郯にいた、秦嘉達の軍勢を監督させた。

 秦嘉は、陳勝の命令に従わず、勝手に大司馬を名乗り、武平君畔の配下になったことを嫌がったため、軍吏に「武平君は、若く、戦争のことは分からない。従ってはいけない!」と言った。

 そして、陳勝の命令と偽って、武平君畔を殺してしまった。

 陳勝の死後、秦嘉は、景駒を楚の仮王に擁立すると兵を率いて、方与に進み、秦軍を討って、定陶を制圧しようと考えた。

 劉邦は、景駒が、楚の仮王として、擁立されたことを知ると、自身の郷里の豊邑を占領し、魏の周巿と通じた、雍歯を討つため、留に赴いて、景駒に従うことにした。

 秦軍を率いる、章邯は、陳城にいて、配下の司馬𡰥を北上させ、楚の地を攻めさせると、相を屠り、碭に攻めて来ていた。

 劉邦は、甯君と共に西に向かい、蕭の西にて、戦ったが、形勢は、不利であった。

 紀元前208年2月、景駒は、公孫慶を斉王の田儋への使者として、派遣し、斉に共に兵を進めることを要請させた。

 田儋は、「陳王が、戦に敗れたと聞いて、彼の生死が分からないのに、楚は、何故、私に要請せずに王を勝手に立てたのか」と責めた。

 公孫慶は、「斉は、楚に要請せずに、勝手に王を名乗っています。

 楚が、何故、斉に要請して、王を立てる、必要があるのでしょうか。

 楚は、最初に秦への反乱を起こしました。楚が、天下に号令するのは当然です」と反論した。

 しかし、田儋は、激怒して、公孫慶を殺してしまった。

 劉邦と甯君は、撤退し、兵を収め、留に集まり、碭を3日で攻め落とした。

 劉邦は、6千の兵を収め、元の兵と合わせ、9千人の兵力となった。

 同年3月、劉邦は、下邑を攻め落とすと、豊を攻めるが、落とせなかった。

 劉邦は、楚の将軍家出身である、項梁の兵力が盛んと聞き、項梁の許に赴いた。