周巿は、魏王室の後裔である、魏咎を迎えて王としたいと考えて、斉、趙の要請を受けず、陳勝の都、陳城にいた、魏咎を迎え入れようと交渉する。

 同年12月、使者が、魏と陳の間を5回往復する、交渉が行われた後、陳勝は魏咎を、魏へと派遣した。

 周巿は魏咎を擁し、魏王とした。

 周巿は、魏の宰相となったのである。

 前述の通り、呉広は、仮王となり、滎陽を討伐しようとした。

 同年9月、秦は、章邯に、二十万の兵を与え、反撃を開始した。

 紀元前208年11月には、一度は、函谷関を破った、周文が、章邯に敗北し、自殺した。

 楚軍は、大打撃を受けて、動揺が走った。

 呉広の配下の将軍の田臧は、滎陽に兵を少し残して、迎撃を行うことを望んだ。

 田臧は、「仮王(呉広)、は驕慢であり、また、兵略及び、権謀術数を知らない。

 共に計略を練ることはできない。殺さなければ、恐らくは、事は失敗に終わるだろう」と同僚に語る。

 田臧の出自は、不明であるが、陳勝が、張楚の王となり、各地に将軍を派遣した際、呉広の配下の将軍に任じられ、滎陽に向かったと思われる。

 田臧は、同僚と共に、王、即ち、陳勝の命令を偽り、呉広を誅殺した。

 田臧は、呉広の首を陳勝に献じた。

 陳勝は、秦に対して、共に叛乱を起こした、同志の呉広の死を嘆いたが、止むを得ず、使者を遣わして、田臧を令尹(楚の宰相)に任ずる印綬を賜い、上将に任じた。

 章邯の反撃により、陳勝は、追い詰められていたのである。

 田臧は、李帰等の諸将に滎陽城を守らせると、精兵を率いて、西に進み、敖倉において、秦軍を迎撃して、戦った。

 田臧の軍は敗れ、田臧は、戦死した。

 秦の将軍の章邯は、更に兵を進めて、滎陽の付近で、李帰達を攻撃して、勝利すると李帰達は、戦死した。

 その頃には、陳勝は、配下に対し、疑心暗鬼となり、中傷を真に受け、殺し回ったとされる。

 周文が、秦の章邯に敗北して、武臣が、趙にて、独立する等、陳勝の権力は、弱まった。

 また、日雇い人夫時代の同僚が、陳勝が、偉くなった様子を見に来たので、城を見学させた。

 しかし、陳勝の威厳を損なう、内容の昔語りを始めたため、手を焼いて、殺してしまった。

 その結果、最初の頃から、付き従っていた者達は、失望して、陳勝から離れた。

 紀元前209年9月、陳勝の配下である、周文の軍が、戯において、数十万の兵を率いて、陣を布いた。

 秦の二世皇帝の胡亥は、ここに至って、驚きを露わにした。

 胡亥は、不都合な、事実を受け入れようとせず、陳勝・呉広の「叛乱」を「盗賊」と過小評価していたために、群臣に「どうすればいいのか?」と諮った。

 少府の章邯は、「盗賊は、既に接近しており、今から、近くの県から、兵を徴発しても、間に合いません。

 驪山(始皇帝の陵墓)には、多くの囚人がいますので、彼等に武器を与え、盗賊を攻撃させてください」と提案した。

 胡亥は、章邯を将に任じて、周文を攻撃させた。

 戦功を挙げれば、罪が許される、囚人達は、決死の兵となった。

 章邯は、周文の軍を打ち破り、周文を澠池で、自決に追い込んだ。

 更に、呉広を殺害した、田臧・李帰らを討ち取り、章邯は、再度、周文を打ち破り、周文を敗走させた。章邯の破竹の進撃は、続いた。

 章邯は、各地で、反乱軍を破ると、遂に陳勝の本拠地の陳城に向かって、進軍し、まずは、張楚の上柱国の蔡賜を討ったのである。