そのため、武臣は、兵を西の秦に向かわせずに、韓広に燕を攻略させ、李良に趙の恒山を攻略させ、張黶に上党を攻略させた。

 韓広は、趙のために燕の土地を攻略していたが、薊に着くと、燕の人々に燕王として、擁立された。

 陳勝・呉広の乱の勃発は、紀元前2009年の7月であり、武臣が、趙王を称したのは、8月、韓広の燕王の自称は、9月である。

 韓広は、元は、河北の上谷郡に住んでおり、秦の卒史、即ち、事務官に任じられていた。

 韓広が、薊に着くと、燕国の過去の貴人及び、豪傑達は、韓広に言った。

 「楚は、既に王が立ち、趙も、また、既に王が立ちました。

 燕は小国ですが、また、万乗(一万乗の戦車)を有する国でした。

 将軍に自立して、燕王となることを願います」。

 韓広は、母が趙にいるため、断った。

 燕の人々は、「趙は、西は、秦に対し、不安があり、南は、楚に対して、不安があり、趙の国力では、我等の燕の自立を止めることはできません。

 また、張楚が、強国であっても、趙王の武臣、将相の邵騒、張耳、陳余の家族を害せません。

 趙だけが、将軍の家族を害することを敢えてしないでしょう」と語った。

 韓広は、燕の人々の意見に同意して、自立して、燕王となった。

 そのため、趙王の武臣は、張耳・陳余と共に、北上して、趙と燕の国境の土地を攻略した。武臣が、密かに出た所を、燕の軍が捕らえた。

 韓広の配下の燕の将は、武臣を拘束すると、「趙の土地の半分を分けて、燕にくれれば、趙王は、帰そう」と要求した。

 韓広は、趙から送られてきた、十数人の使者を殺害すると、土地を与えることを要求した。

 趙の兵舎にいた、雑役の兵士が、燕の将に対し、「張耳と陳余の本当の望みは、武臣が死に、自分達が王となることである。

 そうなれば、燕は、滅びるであろう」と説得して、武臣は、解放された。

 武臣は、その雑役の兵が、御者を務める、車に載って、趙に帰った。

 翌年の紀元前208年11月、李良が、既に恒山を平定したため、趙に帰還して報告した。

 李良は、元は、秦に仕え、高い地位にあって、秦の二世皇帝胡亥から、寵愛を受けていた。

 しかし、前年の武臣、張耳、陳余の趙平定戦の頃、武臣に降伏して、仕えるようになった。

 武臣は、恒山の平定後、更に、李良に太原を攻略させた。

 李良が、石邑に着くと、秦の軍勢が、井陘関を塞いでおり、前進できなかった。

 李良は、秦の二世皇帝、胡亥の使者であると偽ったが、疑われ、李良には、封じられていない手紙が、手渡された。

 李良は、過去に胡亥に仕え、高い地位を与えられて、深い寵愛を受けていた。

 李良が、趙に反して、秦のために働けば、罪を許し、高い地位を与えると書かれてあった。

 李良は、手紙を受け取ったが、手紙の内容を疑って、信じなかった。

 そのため、李良は、邯鄲に引き返して、増援の兵を請おうとした。

 邯鄲に着く、道中で、武臣の姉が、外出して、酒を飲んで車に載って、100余騎を従えている、行列を見つけた。

 李良は、遠くから見て、武臣の車の行列と思って、道端で拝謁した。

 しかし、武臣の姉は、酔っていて、将の李良であると気づかず、車から降りずに、騎兵を遣わして、李良に挨拶させた。

 前述の通り、李良は、秦の二世皇帝、胡亥に寵愛されており、髙位にいた、貴人であった。

 それに対し、武臣は、陳勝と親しかっただけで、身分は、低く、李良は、起き上がると、部下の手前、恥ずかしく思った。