武臣の三十万の軍勢は、白馬津にて、黄河を渡り、河北の諸県に着くと、地元の豪傑達に叛乱軍に味方する様に、説いて回った。

 「秦の政治は乱れ、刑罰は、残虐であるため、天下を損なうことは、数十年に及ぶ。

 北では、万里の長城を建てる徭役があり、南では、五嶺の守備の兵役があった。国の内外は、騒乱状態となった。

 民衆は疲弊しているのに、頭を箕で、取るかの様に数え、税を取って、軍費に当てている。

 民衆の財産は乏しく、力尽きて、民衆は、安らかな人生を過ごせていない。

 その上、厳しい法律と惨い刑罰によって、統治しているため、天下の親子達は、安らかに暮らせていない。

 陳王(陳勝)は、勇気を奮って、天下の為に事を起こした。

 陳王が、領有する、楚の地は二千里四方、響き応じないものはなく、家々は自分のために怒り、人々は、自分の為に戦っている。

 各々が、恨みに報じ、仇を攻め、県では、秦の県令・県丞を殺し、郡では秦の守尉を殺している。

 既に、大いなる、張楚の陳王は、呉広と周文に百万の兵力を率いらせ、西に向かい秦を討たせている。

 この時に際し、陳勝に従って秦を討伐し、封侯となる事業を成さない者は、豪傑ではない。

 諸君達は、試しに一緒にこのことを謀ろうではないか。

 天下の人々は、同じ気持ちで、秦に長い間苦しめられてきた。

 天下の人々の力で、無道の君を攻め、父兄の恨みに報いて、土地を分け与えられる程の事業を成功させるのは、士としての好機なのだ」。

 豪傑達は、その説得に応じ、武臣は、行軍中に兵を集めて、数万人の兵を得た。

 武臣は、武信君と号し、趙の地に有る、10の城を降伏させると、秦の役人は、全て、処刑している。

 残りの趙の城は、全て、防衛を行い、降伏に同意するところはなかった。

 そのため、武臣は、兵を率いて、東北にある、燕の范陽を攻撃した。

 その時、説客の蒯通が、范陽の県令を説得して、使者として、武臣と面会した。

 蒯通は、武臣に対して、范陽の県令の命を保障し、侯に封じて、改めて、范陽の県令に任命した上で、このことを宣伝して、燕や趙の城を降伏させるようにすることを提案する。

 武臣が、同意し、范陽の県令を侯に封じると、趙の城は、三十余城が、降伏した。

 武臣は、更に進軍して、趙の邯鄲に至った。

 「将軍が王とならねば、河北を治めるのは、難しいでしょう。

 また、陳王は、各方面に向かった、諸将に対する、讒言を聞き入れており、このまま、陳へ帰還すれば、恐らく、誅殺され、陳王の兄弟か、趙王の子孫を王に立てます。

 時期を失ってはいけません」と進言した。

 武臣は、二人の進言を聴き入れると、趙王を称した。

 張耳を右丞相に、邵騒を左丞相に、陳余を大将軍に任じて、陳勝に報告した。

 陳勝は、それを聞くと激高したが、上柱国の房君・蔡賜の進言によって、妥協して、武臣が、王を称するのを認めた上で、武臣達の家族を宮中に拘束すると、秦への函谷関攻撃を武臣に命じた。

 武臣は、張耳と陳余の「陳王は、計略で、武臣を王に任じただけです。

 楚が秦を滅ぼせば、兵を趙に向けるでしょう。

 兵を西の秦に向かわせず、北の燕・代を攻め、南の河内を取り、自身の領土を広げて下さい。

 南は、黄河に拠って、北は、燕・代を有していれば、楚が秦を滅ぼしても、趙を制することはできないでしょう」との進言に同意した。