アルテンのスールト元帥は、退却を支援するため、擲弾兵2個大隊の最後の予備兵力を前進させ、連合軍の砲撃により、大損害を追ったが、擲弾兵及び騎兵は、戦線を守った。

 ベレスフォードは、ポルトガル軍3個旅団を投入し、擲弾兵を後退させたが、スールトが、連合軍の横隊に砲撃を集中させたため、ベレスフォードは、部隊投入を追加しなかった。

 アルブエラへ移動中のアルテンのKGL隊は、南の戦闘に間に合わなかった。

 そのため、アルブエラ戻り村にいた、フランス軍を撃退した。

 1811年5月16日の激しい衝突から、約6~7時間後、アルブエラの戦いは、終わったのである。

 翌日の5月17日の朝、フランス軍、イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍の両軍は、再布陣した。

 ベレスフォードは、スールトが、前進した場合、退却することを命令した。

 スールトは、一日中、動かず、負傷兵をセビリアへと運ぶ、手配をしていた。

 グアディアナ川の北岸に取り残されていた、ケミスの強力な旅団1千4百人は、夜明けに戦場に到着し、連合軍と合流した。

 しかし、ベレスフォード将軍は、スールト元帥への攻撃を再開するか、否かを判断できなかった。

 ベレスフォードには、比較的無傷のポルトガル師団とアルテンのKGL隊、待機中の数個のスペイン軍大隊もいた。

 対照的に、スールトには、戦闘態勢を取ったのは、ゴディノの旅団とラトゥール=モブールの騎兵だけであった。

 ウェリントン公爵が、更に、2個師団を連れて、エルヴァスへ進軍中との情報によって、スールト元帥は、退却を決断した。

 ベレスフォード将軍は、砲兵及び、騎兵に優っている、スールト元帥の軍勢への早まった、攻撃を中止した。

 翌日の5月18日未明、スールト元帥は、数百の負傷兵を連合軍に委ねて、戦場を離れた。

 ベレスフォードは、戦力において、優る上に、かつ、一日の休みがあったにも関わらず、追撃することができなかった。

 戦闘において、多くの兵が負傷し、2日後、未だ、戦場から、回収されるのを待っているところであった。

 アルブエラの教会は、負傷した、フランス兵で、溢れ、戦場には、戦死者が、未だに、放置されていた。

 アルブエラの戦いは、イギリス・ポルトガル・スペインの連合軍の参加兵力は、3万5千、フランス軍は、2万4千であったが、参戦兵の数に対して、半島戦争の無数の戦闘において、最大の死傷者を出した、戦いであった。

 両軍の損害は、共に甚大であり、スールト元帥は、バダホスの包囲を解くとの狙いには、失敗したが、双方共、決定的勝利とは、言えなかった。

 連合軍の損害は、5,916人、その内、イギリス軍、4,159人、ポルトガル軍、389人、スペイン軍1,368人に達した。

 3万5千人の兵力の内、六分の一に近い、損害を受けたのである。

 フランス軍の損害は、確認が、困難であった。

 スールト元帥は、当初、ナポレオンへの報告書に、損害は、2千8人と記していた。

 しかし、7月6日の作成の公式文書においては、損害は、5,936人まで、数字が引き上げられた。

 フランス軍の損害の実態については、未だ、正確な数字は、不明であるが、7千人~8千人と言われる。