陳勝及び、呉広は、叛乱を起こした際、民衆の支持を集めるため、陳勝は、扶蘇、呉広は、項燕を名乗った。

 前述の通り、扶蘇は、秦の始皇帝の長子にして、悲劇の皇太子であった。

 項燕は、秦の李信の二十万の軍勢を撃退した、旧楚の英雄で、庶民に人気があり、多くは、その死を知らず、信じていなかった。

 二人は、それを利用した。

 陳勝と呉広は、まず、大沢郷を占領すると、大楚を称し、諸県を攻略し、陳を取る頃には、兵車600乗、騎兵1000余、兵卒数万の大勢力になっていた。

 陳を攻めた時、郡守・県令は、既に逃亡しており、副官が、抗戦したが、瞬く間に陥落した。

 その直後に、賞金首として、秦に追われていた、張耳と陳余が、配下となった。

 陳勝は、張耳と陳余の反対を押し切って、楚を復興したとの名目で、国号を「張楚」とし、自身、王位に就いた。

 陳城は、戦国時代末の一時期、楚が、都を置いた地で、秦の時代に、淮陽郡の治所であった。

 「陳勝、蜂起す」の噂が広まると、それまで秦の圧制に耐えていた、各地の人民が、郡守及び、県令を血祭にして、陳勝に呼応した。

 後に秦を滅ぼした、項梁・項羽・劉邦は、その中の一人であった。

 陳勝は、勢いづくと、呉広を仮の王として、諸将を統率させ西へ征かせると当時に、武臣に張耳・陳余をつけて、趙の地を略定させ、鄧宗に九江郡を攻略させた。

 魏へは周巿が、派遣された。

 呉広は、滎陽を攻めたが、三川郡守、李斯の長男の李由が、防戦し、落城させることができなかった。

 陳勝の配下となった、陳余は、元々、父と共に魏に仕え、儒教に通じ、趙に遊学していた。

 超の地にて、趙の富豪と仲良くなると、その娘と結婚して、財を得た。

 張耳は、前述した、魏の公子、信菱君の食客であったが、信陵君が、政治から引き離される等の事情があって、外黄に移住し、現地の富豪の娘を娶り、妻の実家の援助で、魏に仕官し、外黄県令となった。

 張耳と同郷の陳余は、張耳に仕えており、深く交流して、過去の超の藺相如と廉頗を倣い、互いに首を斬られても、良いとの「刎頸の交わり」を結んだ。 

 なお、幼い頃の劉邦は、魏の公子の信陵君を慕い、彼の食客だった、張耳を訪ねて、親交を深めた。

 紀元前225年、魏が、秦によって、滅ぼされると、張耳と陳余は、名を変えて、陳のある村の門番となった。

 ある時、陳の役人が、張耳と陳余の二人に罪を被せ、鞭打った。

 陳余は、役人に対して、反撃しようとしたが、張耳は、陳余の足を踏みつけて、耐えるように目配せした。

 張耳は、役人が去った後、「二人の高い志のため、今、役人を殺して、騒動を起こすのはやめよう」と陳余に諭した。

 始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が起き、陳勝が、陳城を占拠した。

 張耳と陳余は、陳勝の許へ赴くと、陳勝は、喜び、二人は、陳勝に仕えることになった。

 張耳と陳余の名は、賢人として、諸国に広まっていたためである。

 陳勝は、陳の富豪に「王」を称する様に助言を受けた。

 前述の通り、張耳と陳余は、「陳勝が、単独で、王になると、秦に歯向かう、諸侯が、納得しない」と反対したが、陳勝は、「王」を名乗ってしまった。

 陳余は、陳勝に「兵を預かり、趙の地を攻略したい」と提案した。

 陳勝は、武臣を将軍に任じたうえで、邵騒を護軍に任じ、張耳・陳余の二人を左右校尉に配した。

 そして、武臣に三千の軍勢を与え、北上させて、趙の地を攻略させた。

 武臣は、陳郡陳県の住人で、陳勝が、叛乱を起こす、以前から、陳勝と親しかったため、信頼されていたのである。