中華の歴史は、伝説の黄帝以来、「王」の座に就くためには、高貴な血統を必要として、前述の通り、秦の始皇帝の死後、専横を振るい、二世皇帝の胡亥を殺害した、趙高でさえ、秦の王族の血筋ではないため、王位に就くことができなかったのである。

 陳勝の出現以前に、中華世界では、出自不明の「王」は、存在せず、確実に「種」はあったと言える。

 しかし、陳勝は、「王侯将相寧有種也」と叫び、将軍及び、宰相のみならず、「王」でさえ、「種」はない、即ち、血統は、関係ないと宣言したのである。

 陳勝の名言は、血統による、身分制度の完全否定であった。

 当時、ヨーロッパは、ギリシア、ローマにおいて、市民社会を成立させていたが、奴隷制度は、存在していた。

 陳勝の「王侯将相寧有種也」は、中華世界の「血統による」、身分秩序を完全否定して、2,200年以上、その思想は、続いた。

 無論、「王朝交代」によって、国家が安定期に入ると、身分制度が、成立するが、混迷期に入り、前王朝が滅ぶと、新王朝の建国者は、その血統に関わらず、皇帝の座に就き、新しい血統の身分秩序が成立することを繰り返したのである。

 本項の題名は、「中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位」である。

 本項にて、筆者が、提唱したかったことは、中華世界では、「易姓革命」及び、「王侯将相寧有種也」の思想によって、出自に関わらず、全ての人が、「皇帝」の座に就くことが可能になったとの見解である。

 その結果、中華世界では、「王朝交代」が、頻発した。

 「殷周革命」、即ち、周の武王が、殷の紂王を討伐し、周王朝を建国したことは、孟子が、「易姓革命」を唱えたことによって、正当化された。

 前述の通り、「易姓革命」の思想は、天は、己に成り代わって、王朝に地上を治めさせるが、徳を失った、現在の王朝に対して、天が、見切りをつけた時、「革命(天命を革める)」が、起きるとされた。

 その結果、「王」の「姓」が代わる、夏・殷・周の横領交代が、正当化された。

 しかし、春秋戦国時代には、未だ、前述の通り、姫姓、嬀姓、姞姓、嬴姓のみが、「王」とされて、出自不明の人物は、将軍及び、宰相になることは、可能であったが、王の座に就くことは、不可能であった。

 しかし、陳勝が、「王」の「種」、血統を否定したのである。

 筆者は、当初、本項を「中国史の運命を決定した、殷周革命と陳勝の乱」と命名しようと考えていた。

 しかし、「漢民族」「漢字」の語源である、「漢」王朝の始祖、劉邦の名前は、司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」等によって、陳勝より、遥かに有名であるために、敢えて、「陳勝の乱」ではなく、「劉邦」の即位としたのである。

 更に、別の理由としては、陳勝が、「王」の座に就いて、わずか、一年で、敗死したが、劉邦は、陳勝と同様、農民の出身であったが、劉邦の建国した、「漢」王朝は、400年の間、中華世界を支配した。

 陳勝の王座は、一時的に過ぎなかったが、劉邦の王朝が、400年間、続いたことによって、「農民」の血統が、「皇帝」の血統に代わったのである。

 本項は、「劉邦の即位」までを解説するため、詳細は、後述する。

 本項の冒頭において、筆者は、世界の他の文明の「王朝交代」について、解説したが、「王朝交代」を正当化する、理論は、他の文明には、存在しない。 

 唯一、中華世界のみが、「易姓革命」と陳勝の名言、「王侯将相寧有種也」が、王朝交代の正当化を可能にしたのである。