趙高は、胡亥の死体から、玉璽を奪うと身に帯びて、秦の帝位に就こうとしたが、側近、百官は、趙高に従わなかった。

 秦帝国の臣下達は、暗愚であるが、秦の王族の血脈の胡亥に従ったが、王族ではなく、宦官に過ぎない、趙高を皇帝と認めなかったのである。

 趙高は、殿上に登ろうとしたが、宮殿は、三度、崩壊しようとした。

 趙高は、天が、自分に味方せず、自分が、支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。

 この時、趙高は、楚の劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは、全く、相手にされなかった。

 趙高の権力は、中国史上、稀に見る、暗愚な二世皇帝である、胡亥を源泉としており、趙高自身には、人徳が、皆無であった。

 趙高は、「秦は、元々、王国であった。始皇帝が、天下を統一したため、帝と称したのだ。

 現在は、六国が自立しているため、秦の土地は、ますます、小さくなっている。

 その状態で、帝を名乗っても、名だけの空しいものとなる。

 そこで、かつてのように王と名乗るのがよい」。

 そして、趙高は、人望の厚い、子嬰を秦王として、擁立したのである。

 子嬰は、斎戒を行って、先祖の宗廟に見えてから、玉璽を受けることになった。

 子嬰は、斎戒をして、五日経ってから、宦者の韓談及び、子嬰の二人の息子と謀って言った。

 「丞相の趙高は、二世皇帝の胡亥を望夷宮において、殺害したが、群臣から誅されることを恐れて、偽って、義を立てたふりをして、私を擁立したのだ。

 私は、趙高が、楚の劉邦と約束して、秦の宗室を滅ぼし、関中の王になろうとしている、と聞いた。

 今、私に斎戒を行わせ、先祖の宗廟に見えさせようとしているのは、宗廟の中で、私を殺害しようと考えているのだ。

 私が、病気と称し、宗廟に行かなければ、丞相の趙高は、必ず来るであろう。その時に趙高を殺害すべし」。

 趙高は、使者を派遣して、子嬰に宗廟に見えることを数度にわたって請うたが、子嬰は、行かなかった。

 趙高は、自身、子嬰のところに向かい、「宗廟に見えるのは重大な事です。王はどうして行かないのですか?」と子嬰に問い正したが、直後、子嬰は、斎戒を行うための宮中において、趙高を刺殺した。

 趙高に連なる、三族を滅ぼし、咸陽にて、公表した。

 以上が、始皇帝の死後、天下を混乱させた、趙高の野望の顛末である。

 趙高は、単なる、卑劣な愚人に過ぎず、中華世界どころか、一城さえ、支配できない、小物に過ぎなかった。

 前述の通り、扶蘇が、二世皇帝になっていれば、秦の歴史は、変わっていたかもしれない。

 結果的に、秦は、中国史上、稀に見る、卑劣な宦官の趙高によって、滅びたのである。

 実は、子嬰は、秦の王族であることは、確かであるが、その出自は、不明である。

 始皇帝の弟との説が、有力であるが、『史記』「秦始皇本紀」では、「胡亥の兄の子」とされており、「兄」が、誰の事なのかは記録されていない。

 『史記』「六国年表第三」では、「胡亥の兄」とされており、その場合、始皇帝の息子で、扶蘇の弟になる。

 「胡亥の兄の子」の場合は、扶蘇の息子の可能性がある。

 しかし、前述の通り、子嬰は、趙高の暗殺を企てた時、「二人の息子」と謀ったとしているため、少なくとも、十代以上の年齢の息子がいたことになる。

 子嬰の息子達は、始皇帝の曽孫に当たるため、四十九歳で、死去しているため、始皇帝の「弟」、「息子」、「甥」の三択が、正しいと思われる。