狭い縦隊の正面及び、側面に射撃で、圧力を加えられるため、通常は、連合軍の横隊とフランス軍縦隊の戦闘では、横隊のより、大きな火力が、決定的要素となった。

 しかし、ジラールとホートンの戦闘では、フランス軍の砲兵支援が、効果的であった。

 歩兵の隊形によって、火力の不利を補うのみならず、ジラールは、大砲を、葡萄弾及び、キャニスター弾の十字射撃で、縦射するために、ホートンの横隊から275メートルまで、近づけた。

 戦闘の序盤に、第57歩兵連隊のウィリアム・イングリス大佐が、フランス軍の葡萄弾で負傷したが、イングリスは後方へ運ばれるのを拒否し、連隊旗の下に横たわった。

 イングリスは、戦いが終わるまで、「57連隊、最後まで頑張れ!」と静かに繰り返した。

 そのため、第57歩兵連隊には、「ダイ・ハード連隊」の愛称が付いた。ジラールによる、諸兵科連合の突撃によって、ホートンの師団は、3分の2の兵を失った。

 ホートン自身が、戦死し、損害が増えたため、横隊が縮み、最早、攻撃して来る、縦隊の正面を支援できなかった。

 しかし、フランス軍は、その数的優位を最大限に利用できる、状況になかった。イギリス軍の各個射撃により、ジラールは、2千人の兵を失った。

 ジラールは、射撃力を最大にして、ホートンの旅団を圧倒するために、軍団規模の縦隊を横隊へ転換しようとしたが、イギリス軍の激しい射撃により、絶えず縦隊に戻ることを強いられた。

 戦闘の勝敗は、未だ、決着しなかったのである。

 スールト元帥には、予備兵力のヴェルレの旅団及び、未だに、戦闘に参加していない、交戦していないラトゥール=モブールの騎兵の大半が残っていた。 

 しかし、ラムレイ少将の騎兵の後方にて、待機したままの、無傷のコールの第4師団の存在は、スールト元帥にその強力な騎兵を使わせないようにさせていた。

 スールトは、後にナポレオンへの報告で、その時、ブラケが、ベレスフォードと合流し、予想より、戦力が多い、連合軍と対峙していることを知ったと主張している。

 スールトは、側面攻撃によって、イギリス・ポルトガル・スペインの連合軍の予測を越え、翻弄したが、守備的になって、騎兵の突撃を許可せず、ヴェルレ旅団を予備に留めた。

 イギリス・ポルトガル・スペイン連合軍は、ベレスフォードに余裕が無くなっていた。

 ベレスフォードは、ホートン及び、アバクロンビーの軍勢を増強すべく、デスパーニャの独立旅団を投入しようとしたが、二人は、フランス軍の射程内へ移動することを拒否した。

 コールの師団を残すためであったと言われる。

 ベレスフォードは、代わりにハミルトンのポルトガル師団を呼んだが、ハミルトンは、アルテンを支援し、ゴディノの攻撃を撃退するために、アルブエラ方面へと移動していた。

 そのため、命令が、届くまでに時間がかかったため、ハミルトンの旅団は、命令を受けて、1時間半後になって、移動を開始した、フランス軍の激しい攻撃によって、右翼の損害が、膨らんだため、ベレスフォードは、アルテンのKGL隊、スペイン兵3千人に対し、アルブエラへ行って、守備を交代することを命令した。

 アルテンは、早急に再編制し、南の連合軍右翼へ向けて、移動した。