紀元前207年、趙高は、丞相の地位にあった、李斯を刑死に追い込むと、自身が、後任の丞相となった。

 秦の将軍の章邯は、鉅鹿の戦いにおいて、秦軍を大破した、項羽の率いる、楚軍を中心とした、反乱軍を相手に敗走を重ねていた。

 胡亥は、何度か使者を送り、章邯を責めたため章邯は、長史の司馬欣を趙高の許に派遣した。

 司馬欣趙高に指示を願い、援軍を請うたが、趙高は、面会しようとせず、また、司馬欣を責めた。趙高が、司馬欣を誅殺しようとしたため、司馬欣は、恐れ、章邯の許に逃げ帰った。

 趙高は、追っ手を送り、司馬欣を捕らえようとしたが、追いつかなかった。

 司馬欣は、章邯に会って、「趙高は宮中で万事を支配しています。

 将軍が功を立てても、誅殺し、功を立てなくても、誅殺するつもりです。

 秦に対し、謀反を起こしてはどうでしょう」と伝えた。

 陳余が、章邯に対し、「反乱軍に寝返るべきだ」との書簡を送ってきた。

 章邯は、逡巡した末、遂に楚の上将軍である、項羽に対して、降伏を決意すると、その旨を伝えようとしていた。

 しかし、盟約が、結ばれない内に、項羽が秦軍を攻撃して、章邯の軍を大いに破った。

 章邯は、更に使者を送り、楚に投降した。項羽は、殷墟において、章邯を会見し、章邯は、正式に降伏して、盟約を結んだ。

 章邯は、項羽によって、雍王に封じられることとなった。

 章邯の降伏によって、秦軍の敗北は、決定的になった。

 趙高は、以前から、「函谷関以東の盗賊は、何もできない」と何度も語っていた。

 しかし、項羽が、王離等、秦軍の将を鉅鹿にて、捕らえ、進軍を行い、退却を重ねた、章邯が、秦の宮廷に援軍を求めるほどの事態になっていた。

 また、山東六国、即ち、楚・斉・燕・趙・魏・韓の戦国の七雄の六国では、過去の国を復興させる、動きが起こった。

 そのため、函谷関より、東の地では、民衆が、悉く、秦の役人に反し、諸侯達に応じて、反乱を起こし、諸侯は、反乱軍を率いて、秦の首都、咸陽を目指していた。

 趙高は、胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として、群臣たちの思惑を問い質そうとした。

 そのため、趙高は、鹿を用意し、「馬です」と称して、胡亥に献上した。

 胡亥は、「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は、何を間違えたのだ」と笑って、答えたが、胡亥が、左右の群臣達に問うと、ある者は、沈黙し、ある者は、「馬です」と言って、趙高に阿り、従い、ある者は、その通りに「鹿です」と言った。

 趙高は、「鹿です」と答えた、諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。

 その事件が、「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事である。

 更に、「馬鹿」の語源と言われる。

 趙高は、まず、病と称して、皇帝の前に出なくなった。

 胡亥は、1匹の白虎が、自分の馬車の左側の添え馬を、食い殺してしまうとの夢を見て、不安を感じた。

 そのため、夢占いの博士に問うと、博士は占って、「涇水に祟られている」との結果が出た。

 胡亥は、涇水を臨んだ所に有る、望夷宮に移り、祭祀を行い、涇水の水神を祀り、4頭の白馬を涇水に沈めた。胡亥は、

 使者を遣わして、趙高に東方の反乱について、問い正して、責めた。

 趙高は、胡亥を恐れて、咸陽令で、娘婿の閻楽、弟の趙成と謀議し、胡亥の弑逆を決意した。

 趙高は、叛乱を鎮圧せず、胡亥を殺すことで、自身の権力を守ろうとした。