胡亥は、趙高から、「陛下は、若くして、皇帝に即位されたばかりであるために、陛下に過ちがあれば、群臣達に短所を示すことになります。
天子が『朕』と称するのは、「きざし」の意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」との進言を受けた。
以降、胡亥は、常に禁中に籠り、大臣達は、趙高を介してしか、対面できなくなった。
李斯は、この措置に不満を持ったが、趙高は、表向きは、李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が、酒宴を行っている時に限り、李斯に上殿を要請したため、胡亥は、李斯が酒、宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。
趙高は、「李斯は、故郷の近しい、陳勝たちと内通して、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。
それに対し、胡亥は、李斯への取り調べを開始した。
李斯は、胡亥に上書し、「趙高には、謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は、「趙高は、忠義によって昇進し、信義によって、今の地位にあるのだ。
趙高の人柄は、清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。
朕は、趙高を優れた人物と思っている。お前も、彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。
李斯は、なお、「そうではありません。趙高は、元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。
その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。
ですから、私が危険であると見なしているのです」と処断を求めたが、胡亥は、李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこれを告げた。
趙高は「私が死ねば、丞相は、秦を乗っ取るでしょう」と答えて、胡亥は、李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた。
同年9月には、陳勝に代わって、叛乱軍の首領となっていた。
項梁が、章邯に敗れて戦死している。
その時期に、右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・将軍の馮劫は胡亥を諫め、「関東の群盗達は、数多く、未だに決起は止むことはありません。
民が、兵役や労役で苦しみ、賦税が大きいからです。
しばらく阿房宮の工事を中止して、四方の兵役や輸送の労役を減らしてください」と訴えた。
しかし、胡亥は、前述の「尭や舜の生活が質素であり、苦役を行った。
天子が、貴いのは、意のままに振る舞い、欲望を極め尽くして、法を厳しくすれば、民は罪を犯さず、天下を制御することができる。
天子であるにも関わらず、質素な生活と苦役を行い、民に示した、舜や禹は、手本には、できないと韓非子は言っている」と反論した上、「朕は、帝位につきながら、その実がない。
朕は、(天子の)名にふさわしい存在となることを望んでいる。
君達は、先帝(始皇帝)の功業が、端緒に付いたことを見ていたであろう。
朕が、即位して、2年の間、群盗は決起し、君達は、これを治めることができなかった。
また、先帝の行おうとしていた、事業(阿房宮の工事など)を止めさせようと望んでいる。
先帝の報いることもできず、更に朕にも、忠義と力を尽くしていない。
どうして、その地位にいることができるのか?」と言って、馮去疾・李斯・馮劫を獄に下し、余罪を調べさせた。
馮去疾と馮劫は、自殺し、李斯は、禁錮させられた。
そして、前述の通り、趙高は、李斯の息子の李由の冤罪を捏造し、李斯は、拷問に耐えられず、罪状を認めてしまったのである。
胡亥は、「趙高がいなければ、李斯に欺かれるところであった」と喜んだとされる。
そして、李斯は、処刑され、一族は、皆殺しになったのである。