胡亥は、法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時、「大臣は、私に服しておらず、官吏は、なお力を持っている。

 諸々の公子は、必ず、私と争う気でいる。どうすればよいか?」と尋ねた。

 趙高は、「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥は、その進言を受けて、大臣及び、諸々の公子の粛清を実行した。

 秦の公子、12人は、咸陽の市場で処刑され、公主10人は、杜(地名)にて、車裂の刑に処された上に市場で、晒し者とされ、財産は朝廷に没収された。 

 公子高などは逃亡しようと図ったが、一族が連座するのを恐れ、自身、始皇帝への殉死を訴え出た。

 公氏達の死により、皇帝の座を巡る、争いはなくなったが、皇帝を守る、藩屏はいなくなった。

 胡亥は、始皇帝の開始した、阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないまま、放置すれば、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。

 また、郡県に対し、物資及び、食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して、咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることさえできなくなったと言われる。

 法令及び、誅罰は、日々厳しさを増していき、道路の工事、租税の取り立てが、重くなり、兵役及び、労役が、止むことがなかった。

 後世の評価では、秦の法律及び、誅罰が、余りに苛烈であったために、秦は、滅亡したとされる。

 確かに、秦は、厳格に法律を施行したが、中華全土が、苦しむほどに苛烈にしたのは、胡亥及び、趙高であった。

 紀元前210年、左丞相の李斯は、始皇帝が、巡幸の道中で崩御すると、趙高に恫喝されて、趙高と共に偽詔を作成し、胡亥を二世皇帝として即位させた。 

 更に扶蘇を自決に追い込んだ。

 始皇帝の死によって、秦帝国の基盤が揺らいだが、苛斂誅求の弊は、改まらなかった。

 翌年、陳勝・呉広の乱を初めとして、反乱が続発し、国内は大混乱になった。

 しかし、暗愚な二世皇帝の胡亥は、遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。

 李斯は、右丞相馮去疾及び、将軍馮劫と共に、阿房宮の造営等の政策を止めるよう諫言した。

 胡亥は、讒言を顧みず、馮去疾と馮劫は、自害した。

 李斯は、なお、諫言を重ねたが、胡亥の不興を買い、更に趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。

 紀元前208年、遂に李斯は、捕らえられた。

 凄惨な拷問に耐えられず、趙高が、捏造した、容疑を認め、法に則り、三族皆殺しとなった。

 李斯の容疑は、楚の項梁の軍に討ち取られた、李斯の長男、三川郡守の李由が、生前、楚軍と内通していたとの罪であった。

 無論、李由の内通は、完全な冤罪であり、趙高に陥れられたのである。

 李斯は、市中にて、五刑の末に腰斬されると、遂にその生涯を終えたのである。

 五刑とは、鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つことであり、腰斬は、胴を斬って、受刑者を腹部で、両断し、即死させず、苦しませ、死なせる重刑である。

 李斯は、始皇帝の死の直後、趙高の恫喝を拒否せず、胡亥を皇帝にしたことを後悔したであろう。

 李斯は、法家理論の完成者の韓非に対して、法家政治の完成者とされる。

 李斯は、韓非を謀殺した事及び、偽詔によって、扶蘇を殺した事、他に儒者を徹底的に弾圧した、焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は、非常に悪いが、秦の始皇帝の中華統一において、最大の役割を果した。

 始皇帝と李斯によって、中華世界は、一つの国になったと言える。