子嬰は、『史記』において、胡亥の兄の息子とされており、父は、扶蘇との説があるが、定説ではない。

 子嬰は、胡亥に対し、「蒙恬を殺害してはいけません。

 過去に趙の幽繆王は、良将の李牧を殺して、顔聚を用い、燕王喜は、荊軻の計略を用いて、秦との盟約に背いて、斉王建は代々の忠臣を殺して、后勝の意見を用いました。

 三人の君主は、皆、古来のやり方を変えて、国を失い、災いは、その身に及んだのです。

 蒙恬・蒙毅の兄弟の蒙氏は、秦の大臣で、謀士であります。

 私は、『思慮が足りない者は、国を治めることができず、独りよがりな者は、君主を保つことができない』と聞いています。

 主(胡亥)が、一朝にして、彼等を捨て去ろうとするのは、よろしくないと考えます。

 忠臣を誅殺し、節操が無い人物(趙高のこと)を取り立てれば、朝廷の内では、群臣達が、互いを信じることができなくなり、外地では戦士たちの心が秦王朝から離れてしまいます」。

 胡亥は、一度は、蒙恬を許そうとしたが、趙高が、蒙恬と弟の蒙毅の死を胡亥に請うたため、胡亥は、子嬰の言葉を聞き入れず、使者を送り、蒙恬・蒙毅兄弟に自害を命じた。

 蒙恬は、胡亥の自害命令が届くとやむを得ず、毒を飲み、自害した。

 蒙恬は、自害の際、「私に何の罪があって、過ちもないのに死ななければならないのか」と自身に問いかけて、嘆いた。

 「私の罪が、死に当たるのも無理はない。長城を築くこと、数万里、途中で、地脈を絶ったのだろう。それこそが、私の罪である」と言って、毒を仰って、自殺した。

 蒙恬の死後、弟の蒙毅が、趙高によって、讒言されると、殺害された。

 更に、蒙氏一族は、皆殺しにされた。

 胡亥は、一度は、蒙恬を許そうとしたが、趙高が、蒙恬と弟の蒙毅の死を胡亥に請うたため、蒙氏一族は、殺害されたのである。

 全ては、秦の30万の軍勢の指揮権を有していた、蒙恬を趙高が、恐れていたと考えられる。

 胡亥は、皇帝に即位すると、「二世皇帝」と呼ばれる。

 前述の通り、始皇帝が、皇帝の座を「始」皇帝に始まり、二世皇帝、三世皇帝と続かせようとしたため、胡亥が、二世皇帝と呼ばれたのである。

 胡亥は、始皇帝の死後に、その遺骸を驪山に葬った。

 胡亥は、始皇帝の後宮の女官達ら、全て、始皇帝に殉死させた。

 また、始皇帝の棺を既に、埋めた後、「工匠達は、(始皇帝の墓の)機械を造営したため、全員が、埋蔵物を知っています。

 埋蔵物は、貴重であり、外に漏れたら、大事になります」との進言を受けると、墓の中門と外門を閉め、埋蔵に従事した、工匠達を全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。

 更に、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

 胡亥は、宦官の趙高を側近として、信任し、趙高を召して、「私は耳目に心地よいもの、心から楽しいと思うものを全て、極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。私の望みを実現する手立てはあるか?」と尋ねた。

 胡亥は、政治に関心がなかったのである。

 趙高は、「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼして、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下が、新しく取り立てた者を側に置けば、楽しみを得らえるでしょう」と答えた。

 胡亥は、趙高の弾圧及び、側近政治に同意して、法律を改めて、群臣及び、公子に罪が有る者いれば、趙高に引き渡して、糾問させたのである。