左丞相の李斯は、始皇帝の崩御が、天下騒乱の引き金になることを恐れて、秘したまま、巡遊の一行は、咸陽へ向かった。

 始皇帝の崩御を知る者は、末子の胡亥、左丞相の李斯及び、中車府の令の趙高等、数名であった。

 死臭を誤魔化すため、大量の魚を積んだ車が、伴走し、始皇帝が、生きているような、振る舞いを続けた。

 趙高は、胡亥に、始皇帝の崩御を伝えると同時に、「扶蘇様が、即位すれば、他の公子は、わずかな土地も与えられません」と告げた。

 胡亥は、「父が決めた事に対して、私が、口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高は、帝位の簒奪を促し、「殷の湯王や周の文王は、主(夏の桀王・殷の紂王)を誅し、天下の人々は、殷の湯王、周の文王の義を称えました。

 小事に拘って、大事を蔑ろにすれば、後に害が及びます。

 躊躇えば、必ず、後悔します」と述べた。

 度重なる、訴えに遂に、胡亥は、趙高の謀略に同意し、その後、趙高は、左丞相の李斯を説得し、謀略に引き入れた。

 三人は、始皇帝の詔を偽り、胡亥は、皇太子に即位し、長子の扶蘇と将軍の蒙恬には、使者を送った。

 趙高、胡亥、李斯の三人は、始皇帝の筆と偽って、多数の罪状を記した、書状を渡して、扶蘇と蒙恬に死を賜った。

 前述の通り、始皇帝は、生前に、皇帝の印を捺した、遺言を長子の扶蘇に残していたが、趙高は、遺書を隠蔽したのである。

 扶蘇は、上郡において、使者を迎えて、趙高達による、偽の詔を開いて読んだ。

 その内容は、以下の通りである。

 「朕(始皇帝)が、天下を巡行し、名山にいる、諸々の神々を祀り、長寿を得ようとした。

 扶蘇及び、蒙恬に数十万の軍を率いさせ、辺境に駐屯させること、十数年、経過したのに、前進できずに、数多くの兵士を失った。

 尺寸の土地を得る功績が、無いにも関わらず、度々、上書して、私(始皇帝)の行いを直言して、誹謗した。

 扶蘇が、(蒙恬の監督)を罷免されて、咸陽に帰還しても、太子になれないため、日夜、怨望しているためだ。

 扶蘇は、人の子として不孝である。剣を賜うゆえ、自決せよ。

 将軍の蒙恬は、扶蘇と共に北方の外地にいながら、扶蘇の行いを矯正しなかったのは、扶蘇の謀計を知っていたからである。

 蒙恬は、人臣として、不忠である。」

 そして、「蒙恬には、死を賜うゆえ、軍は、副将の王離の下に配属させるように」と偽の詔に書かれていた。

 扶蘇は、偽詔を読むと、泣いて、中の部屋に入り、自殺しようとした。

 蒙恬は、制止して、扶蘇に言った。

 「陛下は、巡行にいて、未だに、太子を立てておらず、私を30万の衆の将として、辺境を守備させ、公子(扶蘇)に監督させています。

 私と公子の任務は、天下を治める、重任です。

 今、一度のみ、使者が来て、即座に自決を命じています。

 何故、この詔が、偽りでないと言い切れるでしょうか?

 重ねて詔を請い、再び、詔を受け、同じ内容であれば、その後、自決すれば、遅すぎることはないでしょう」。

 趙高達の使者は、何度も、扶蘇の自決を促した。

 扶蘇は、仁愛に厚い性質のために、蒙恬に次の様に言った。

 「父が、子に死を賜うのに、どうして、再び詔を請おうか!」と。扶蘇は、自決した。

 蒙恬は、自害に同意せず、陽周の監獄に繋がれると、趙高によって、日夜誹謗され、その罪過を挙げて、弾劾された。

 子嬰が、胡亥を諫めたが、聞き入られることはなかった。