前述の通り、始皇帝は、紀元前212年、蒙恬に命じて、30万の軍勢により、北方遊牧民の匈奴を討伐させた。

 匈奴征伐の一つの要因は、『録図書』の「秦を滅ぼす者は胡」であるとの予言を信じたためである。

 「胡」は、中華の人々にとって、北方の遊牧民を意味した。

 しかし、「胡」の予言は、別の形で、実現し、秦は、「胡」によって、滅びた。

 始皇帝の息子は、二十数人いたが、長子は、仁愛の人格と聡明さで知られる、扶蘇である。

 歴史書には、扶蘇の母については、全く、触れられておらず、不明のままである。

 そして、紀元前212年に、始皇帝のために不老の薬を探させていた、方士の盧生が、韓の客である、侯生と共に始皇帝を非難し、更に逃亡する事件が起きた。

 前述の通り、始皇帝は、激怒して、学者と方士を取り調べ、禁令を犯した物、460余人を捕らえて、咸陽にて生き埋めにして、天下の人に知らしめた。

 坑儒である。

 更に、始皇帝は、ますます、罪人を摘発して、辺境に流した。

 長子の扶蘇は、父の始皇帝を諫めた。

 「天下は、初めて平定され、遠方の民は安息を得ていません。

 学者達は、孔子の教えに従っています。

 父上は、彼等、全員に対する、刑罰を厳しくして、正しております。

 私は、天下の民が不安を感じることを恐れます。それをお察し願います」。

 度々、諫めたため、始皇帝は怒って、扶蘇に上郡にいた、蒙恬を監督させることにして、蒙恬の駐屯する、北の地へ送ったとされている。

 始皇帝の息子は、長子の扶蘇と末子の胡亥の他は、名が知られていない。

 始皇帝の時代の「公子」としては、将閭及び、公子高の名が、記録にあるが、「嬴」姓であること以外には、具体的な親族関係は、不明である。

 扶蘇は、始皇帝の長子であったが、太子ではなかった。始皇帝が、太子を立てず、後継者を不透明なままにしたことが、秦を滅ぼすことになる。

 紀元前210年10月、始皇帝は、5回目の巡幸に出た。

 始皇帝は、東南へと向かったが、その理由は、方士が、東南方向から、天子の気が立ち込めているとの言を受け、それを封じるためであった。

 500年後に金陵において、天子が現れると聞くと、始皇帝は、山を削り、丘を切って、防ごうとしたのである。

 結果的には、東南の「天子の記」は、漢の高祖、劉邦のことであった。

 5回目の巡幸の際、左丞相の李斯及び、中車府の令、宦官の趙高が、始皇帝の供をし、右丞相の馮去疾が、留守を任された。

 始皇帝の末子である、胡亥は、巡幸の供をすることを父に願い出ると、始皇帝に許され、巡幸に同行することになったのである。

 5回目の巡幸中に始皇帝は、発病し、病は重くなった。

 そのため、始皇帝は、長子の扶蘇に皇帝の印を捺した「喪を咸陽で迎えて、葬儀を行え」との内容の文書を作った。

 皇帝の印を捺された、文書は、封印され、中車府の令で、符璽(皇帝の印)を扱う、事務担当の趙高許に留まったまま、使者には、授けられていなかった。

 始皇帝は、沙丘の平台宮にて、崩御した。

 享年、四十九歳である。

 始皇帝は、不老不死を願って、様々な方法を探させたが、長寿さえ、実現しなかったのである。

 しかし、四十九歳の病死は、近代以前には、普通であり、中国では、唐の太宗、李世民が、五十一歳、また、日本では、源頼朝が、五十一歳等、「人生、五十年」の時代であった。