始皇帝は、儒者に激怒して、咸陽中の学者を尋問し、盧生の様に人を惑わすような人間を挙げるように命令した。

 そして、咸陽の460人の学者を見せしめに穴埋めにした。

 始皇帝の長男の扶蘇は、坑儒を諌めたが、始皇帝の怒りを買って、北方の防衛の任務に就かされた。

 しかし、儒者が、全て、殺されたのではなかった。

 儒者の中には、易占いの専門家として、始皇帝に仕えていたと思われる者がいる。

 更に、始皇帝の死の直後に、二代代皇帝の胡亥が、一人の儒者に意見を求めている。

 そして、前漢の武帝の時代に飛躍的に復活を遂げた。

 以後、孔子を祖とする、「儒教」は、中国の歴史を通じて、二千年間、支配者のための思想として、利用されたのである。

 始皇帝と李斯は、経済政策として、度量衡、通貨、荷車の軸幅(車軌)、位取り記数法等を統一して、市制の標準を定めることで、経済の一体化を図った。

 そして、各地方の交易を盛んにするため、道路、運河等の広範な交通網を整備した。

 戦国時代には、各国によって、異なっていた、通貨は、半両銭に一本化された。

 更に、最重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。

 李斯は、秦国内にて、篆書体への一本化を推進した。

 皇帝が、使用する、文字は、「篆書」と呼ばれて、標準書体とされた。

 臣下が、用いる文字は、「隷書」として、程邈が、定めたと言われる。

 しかし、一人の力で、完成できるとは、考え難いため、他の学者が関わっていたと思われる。

 その後、この書体を征服した、全ての地域にて、公式の文字と定め、中国全土における、通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。

 度量衡を統一するため、基準となる、長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。

 始皇帝による、様々な統一によって、「中華世界は一つ」との概念が生まれ、中国は、二千年以上、繰り返し、統一された。

 秦の始皇帝は、大土木事業を行い、各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させた。

 また、諸国の武器を集めて、鎔かし、十二金人を製造した。

 この政策は、地方に残る財力と武力を削ぐために行われた。

 首都の咸陽城には、滅ぼした国から、娼妓、美人等が集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。

 人口は膨張し、従来の渭水北岸では、手狭になった。

 紀元前212年、秦の始皇帝は、皇帝の居所に相応しい、宮殿の建設に着手した。

 渭水南岸に広大な「阿房宮」の建設を始めた。

 渭水南岸には、秦の恵文王の時代に建設された宮殿が、存在していたが、始皇帝は、その宮殿を300里前後まで、拡張する計画を立てた。

 最初に、1万人が座れる、前殿が建設され、門には、磁石が用いられた。

 皇帝の居所である、「紫宮」は、四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ、 巨大な宮殿であった。

 名称の「阿房」とは、仮の名称である。

 「阿房」は、史記・秦始皇本紀には、「宮を阿房に作る。故に天下之を阿房宮と謂う」とあるため、地名である。

 「阿房」の名称の由来は、様々な説があるため、定説はない。

 嬴政は、秦王に即位した、紀元前247年に自身の陵墓建設に着手した。

 それ自体は、寿陵と呼ばれ、珍しくはないが、陵墓は規模が、格段に大きかった。

 阿房宮の南80里に有る、驪山が選ばれ、始められた建設は、統一後に拡大された。

 始皇帝の晩年に、阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたとの記録がある。