他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。

 周王権は、その支配領域を再編し、政治的影響力を四方に拡大していった。

 しかし、西周時代の封建制の特質は、武装植民地型の封建制である。

 その結果、「中華世界」は、拡大の一途を辿ったと言える。

 紀元前771年、西周王朝が滅亡し、東周、即ち、春秋時代に入ると、周王に対する、諸侯の自立性が高まった。

 周王の権威が衰退して、封建制が動揺し始めた。春秋時代に入ると、各国間の戦争が常態化するようになり、戦争による競合の中で、諸侯は、天子に対する貢納を経常的に行わなくなり、封建制の基盤である、貢納制が不安定化した。

 西周時代には、長子相続を根幹する、宗族制度がったが、春秋時代に入ると、宗族組織が、解体されたため、集権的な官僚制に置き換わった。

 その結果、中国的な封建制度は、徐々に消滅していった。

 宗族制度は、春秋時代の末期から、戦国時代の初期にかけて、解体され、末端では、「邑」を中心とする、諸侯支配が確立した。

 更に、春秋時代には、「会盟政治」と呼ばれる、政治形態が出現した。

 「覇者」と呼ばれる、盟主的国家が、他国に対して、緩い上位権を築く仕組みであるが、周王朝が衰えると、各国の単独では、北方・東方異民族の侵攻への対応が難しくなったため、新たな支配・被支配の関係が、必要となり、誕生したと考えられている。

 「覇者」の代名詞が、斉の桓公、晋の文公に代表される、「春秋五覇」である。

 「覇者」の会盟の誓約は、祭儀的な権威に付託して、会盟参加者に命令する、関係を築いた。

 会盟は、多くの場合、宗廟において、挙行され、先王に戦争の停止を誓うと共に、周王を奉戴して、貢献制を基盤とする、封建的秩序を再構築する儀礼であった。

 会盟は、諸侯間だけではなく、趙氏一族を中心とする、晋国内部の諸首長間の紛争の調停に際しても挙行された。

 覇者及び、諸氏族の宗主達は、会盟の主宰者になることによって、貢献制を基盤とする、封建制的秩序を維持しようとしていたとされる。

 戦国時代に入ると、宗族組織は、殆ど、消滅、または、変質した。

 封建領主は、宗族及び、功臣を除いて居なくなり、在地諸侯は、血縁ではなく、官吏及び、律令により、支配されるようになり、郡県制に置き換えられた。

 中華世界の中央集権体制は、秦の始皇帝による、中華統一に先駆けて、戦国の七雄の国々で、行われ始めた。

 戦国時代の呉起は、兵法家として、有名であるが、楚の国政改革に乗り出した。

 呉起は、魏を去って、楚に亡命すると、楚の悼王に寵愛され、宰相に抜擢された。

 呉起は、法家的な思想を元とした、国政改革に乗り出した。

 楚は、元々、宗族の数が、他の国と比べ、多かったため、王権は、強くなかった。

 呉起は、領主の権利を三代で、王に返上するとの法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取り、相続を弱めた。

 前述の通り、呉起の改革は、楚の悼王の死後、権力を削られた、貴族達が、呉起を殺害し、覆されることになった。

 その後、「法家」には、商鞅、申不害等が、登場すると、申不害は、韓の昭侯の宰相となり、商鞅は、秦の孝公の宰相となった。

 孝公と商鞅による、秦の改革は、富国強兵を実現し、秦が、中華世界の統一を果たす、基盤となった。