「封建制」においては、諸侯達は、領有統治権の代わりに君主に対し、貢納、軍事奉仕等の臣従が、義務づけられ、領有統治権及び、臣従義務は、一般に世襲される。

 「封建制」は、日本では、平安時代中期~江戸時代末までの武家の時代である。

 「武家」は、平安時代中期以降には、荘園、即ち、土地を領有し、「一所懸命」と呼ばれるほど、土地に執着した。

 平安時代には、武家の土地所有は、京の公家達に寄進することにより、認められていたが、その立場は、不安定であった。

 源頼朝は、「武家の棟梁」として、鎌倉に武家政権を構築し、「武家」の領有統治権を保障する代わりに、軍事奉仕を求めた。

 以降、大政奉還に至るまで、日本では、676年間の武士の時代、「封建制」が、続いたのである。

 ヨーロッパの「フューダリズム」は、歴史学において、中世の北西部ヨーロッパ社会特有の支配形態を指した用語であり、「封建制」と訳される。

 土地と軍事的な奉仕を媒介とした、教皇・皇帝・国王・領主・家臣の間の契約に基づく、緩やかな主従関係により形成される。

 分権的社会制度であり、近世以降の中央集権制台頭で、解消した。

 マルクス主義歴史学、「唯物史観」においては、生産力の進歩に伴い、拡大するとされる、生産関係の上部構造及び、下部構造の間の矛盾の発生と、その矛盾の弁証法的な発展解消を基盤として、普遍的な歴史進歩の法則を見いだそうとした。

 そのため、「フューダリズム」、即ち、「封建制」の理論的枠組みを非ヨーロッパ地域に適用して、説明が試みられた。

 その場合、古代ギリシア及び、古代ローマ社会を典型とする、古代の奴隷制が、生産力の進歩によって覆されて、領主が、生産者である、農民を農奴として支配するようになったと解釈される、社会経済制度のことを「封建制」と定義し、封建制度が、認められる歴史段階を「中世」と定義し、歴史は、「古代」「中世」「近世」「近代」に進歩するとした。

 ヨーロッパの封建制度は、古代ゲルマン人社会の従士制度及び、ローマ帝国末期の恩貸地制度に起源を見出した。

 そして、それらが結びついて、成立したと説明されることが多い。

 国王が、諸侯達に領地の保護をする、代償に忠誠を誓わせ、諸侯に同様のことを臣下たる、騎士に約束し、忠誠を誓わせるのが、封建制度である。

 封建制度の国王、諸侯、騎士の主従関係は、騎士道物語等のイメージによって、誠実で、奉仕的であると考えられることが多いが、実際は、互いの契約を前提とした、現実的である。

 また、両者の関係が、双務的であることがあり、主君が、臣下の保護を怠ったりした場合は、短期間で、両者の関係が、解消される場合が、珍しくなかった。

 更に、ヨーロッパの封建制度は、「臣下の臣下は臣下でない」との語に示されるように、直接、主従関係を結んでいなければ「臣下の臣下」は、「主君の主君」に対して、主従関係を形成しなかったため、複雑な権力構造が形成された。

 その結果、中世西欧社会は、極めて、封建的無秩序社会となる要因となったのである。

 西欧の中世においては、その初期のカロリング朝フランク王国の覇権の解体期において、北欧からのノルマン人、西アジアと地中海南岸からのイスラム教徒及び、中央ユーラシアのステップ地帯からのマジャール人やアヴァール人等の外民族の侵入に苦しめられていた。

 そのため、本来、一代限りの契約の主従関係が、次第に世襲化・固定化されたのである。