「中華」または、「華夏」の用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間では、「中国」と同様の自称として用いられた。

 「中心の国に住む優れた文化の担い手」との意味の「中華」には、地理的な意味に加えて、「漢民族のアイデンティティ」及び、「華夏文化の優越性」との要素が、共存していたのである。

 中華思想においては、天の意志を代行する、「皇帝」が、その徳によって、統治を行うが、徳を失えば、新たな家系に替わる。

 即ち、前述した、「易姓革命」の概念であり、中国では、「禅譲」及び、「放伐」による、王朝交代の歴史が、繰り返された。

 「中国」「中華」に対し、その四方に居住する。周辺民族は「夷狄」として。対置される。

 11世紀以降の宋から明の時代にかけて、宋明理学は、大いに流行し、再度、「華夷秩序」を強調するようになった。

 また、宋、明では、異国文化を珍重し、外国人を宮廷で登用した。

 中国の皇帝は、西アジアの「諸王の王」に相当し、中国歴代王朝は、自身が、人類で、唯一の皇帝であり、それ以外は、中華世界における、辺境に過ぎないとの態度を取った。

 「中国」には、対等な国が存在しないのだから、対等な関係の外交は存在せず、周辺民族との関係は、全て、「朝貢」の形式となる。

 逆に夷狄の王が、中原を征服し、中国に同化し、皇帝となることが可能であった。

 五胡十六国時代の諸国、南北朝時代の北朝、五代十国時代の突厥沙陀部系軍閥が、中央権力の要を成した、後半四代が、その典型である。

 しかし、遼・金・元・清の4王朝は、漢民族を支配して、中華帝国の系統に属する、王朝を作ったが、自民族の統治制度及び、文化を保持し続け、版図の一部を構成するに過ぎない、漢民族地域に対しては、征服王朝として、振る舞った。

 漢民族が、直面した、現実に対して、宋学では、「華夷秩序」が、強調されるようになった。

 「華夷秩序」に基づく、異民族の清王朝の法律には、「外国人に対しては、自分を中国と呼ぶ必要がある」と規定したことがある。

 厳密に定義すれば、「中国」とは、辛亥革命後の「中」華民「国」の略称であり、その後の中国共産党の支配による、「中」華人民共和「国」の略称に過ぎず、正式な国名としては、「中国」は、存在しない。

 秦の始皇帝は、中華の統一後、周王朝時代から続いた、古来の支配者観を根底から覆した。

 政治支配は、中央集権を採用して、被征服国は、独立国の体を廃され、代わりに36の郡を置いて、後にその数は、48に増えた。

 郡は、「県」で、区分され、更に「郷」そして、「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。

 始皇帝は、郡県制を中国全土に施行したのである。

 秦による、中華の統一後、臣下の中に、従来の封建制を用いて、王子達を諸国に封じて、統治させる意見が、主流であった。

 しかし、封建制は、夏・殷・周の時代に発生した、政治的混乱を招くと強硬に主張した、李斯の意見を採用した。

 過去の緩やかな同盟、または、連合を母体とする、諸国関係は刷新された。

 伝統的な地域名は、存在しなくなり、例えば、「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶ等の区別をできなくなった。

 人物登用は、家柄に基づかず、能力を基準に考慮されるようになった。

 「封建制」とは、君主の下にいる、諸侯達が、土地を領有して、その土地の人民を統治する。社会・政治制度のことであり、「郡県制」「官僚制」の対義語と言える。