筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。

 西周時代には、中原、または、洛陽の周辺を指していた。

 中華世界、初期の王朝、「夏」「殷」「周」の三代には、中原及び、洛陽周辺は、「夏華」と呼ばれ、「夏華人」と自称していた。

 黄河流域で、黄河文明を営んでいた、漢民族の前身となる、都市を持つ、部族国家の連邦の民の国際社会では、「中国」との語は、王及び、覇者を中心とした、秩序に基づいていた。

 その後、「中華思想に基づく」「文化的優越性を持った世界の中心」との意味を帯び、遂に、秦の始皇帝が、中原地域の諸民族の統一に成功する。

 始皇帝に発する、中国の歴代王朝の政治的及び、軍事的な境界を設定する中で、漢民族の意識の漢民族意識のアイデンティティが、徐々に形成され、漢民族を境界付ける自称として、「中国」の言葉が、拡張されていった。

 「中原」とは、黄河文明の発祥地、黄河中下流域に広がる平原のことであり、「中国」と同義とされることがある。

 「秦始皇は、中国を防衛するため、長城を建てた」と文書に記載されている。

 『漢書』の「溝恤志」卷29では、「中國川原以百數」即ち、古より、中国には、何百の山と原があり)と書かれている。

 また、前漢の昭帝の時代に書かれたとされている、『塩鉄論』においては、景帝時代までの領土及び地域を「中国」と称している。

 前漢の武帝が新規に征服した領域は、「中国」と対置する領域として、「辺境」の用語が、各所で記述されている。

 しかし、武帝が、新たに征服した、領土を含む領域を、「中国」と表現している箇所もある。

 武帝の支配した、領域以外の地域を「外国」と表記し、「外国」を「中国」と対置している箇所があるのである。

 周王朝時代の領域は、「諸夏」、漢の高祖、劉邦の平定領域は、「九州」と各々使い分けて、記載されている。

 同時代には、既に「中国」の領域が、「中原」よりも広い地域に拡大し、自民族の伝統的領域と認識されている。

 その一方、前漢王朝の支配領域の全てが、「中国」と認識されているわけではない、用例がある。

 『塩鉄論』には、一箇所にのみ、「漢國」の表記があり、概ね「漢」に支配される領土は、「中国」と同義とみられる。

 唐王朝に入ると「中国」の領域は更に拡大し、現在の中国本土と呼ばれる領域が、「中国」と認識されるようになっていた。

 例えば、「唐興,蠻夷更盛衰,嘗與中國亢衡者有四:突厥、吐蕃、回鶻、雲南是也」とある。

 韓愈は、論仏骨表において、「仏というものは、後漢の時代に中国に伝わったものであり、その前の中国には、まだ、仏はいなかったのです」と記している。

 同時に「中国」の概念は、地理的な領域名のみならず、王朝が、現時点においての支配領土を意味するようになった。

 「中国」の領域認識は、支配領域の拡大縮小と連動した。

 通例では、清朝末期以前は、「中国」は通史的意味を持たないとされているが、通史的な用例が、全くないわけではない。

 例えば『宋史』では、「古より、中国は漢武帝や唐太宗の如く強く盛んであった」との記載があり、『魏志倭人伝』には、「古より、その使者が、中国に来ると、皆、自分を大夫と称した」と記されている。