ベレスフォード将軍の前衛部隊が、東岸に取り残されたことは、破滅的に思われたが、バダホスの守備を指揮していた、ラトゥール=モブールは、連合軍と対峙するより、要塞の修繕に注力していた。

 当初、バタホスを指揮していた、モルティエ元帥は、この時点で、ナポレオンによって、フランスに召喚されていたのである。

 フランス帝国元帥である、モルティエと、将軍のラトゥール=モブールの能力の差は、大きかった。

 ラトゥール=モブール将軍は、イギリス・ポルトガル連合軍の第13軽竜騎兵大隊を捕虜としたことに伴う、小成功の後、兵力で優る、ベレスフォードの軍を前にして、バダホスに3千人、オリベンザに4百人の守備隊を残して、後退した。

 4月8日には、新しい橋が、グアディアナ川に架けられ、翌日、ベレスフォードの軍勢は、オリベンサへ移動した。

 そして、スペインとポルトガルの国境を越えると、バダホスの南、24キロメートルに達した。

 ベレスフォード指揮下のイギリス軍の第4師団は、その地点のフランス軍の小守備隊を攻撃した。

 更に、イギリス・ポルトガル連合軍の主力は、ラトゥール=モブール将軍を南に追い、バルベルデ及び、アルブエラから、バダホスの守備隊を監視するための擁護部隊を送った。

 ベレスフォードは、エストレマドゥーラのスペイン軍の残兵、カスターニョス将軍指揮下の軍勢に行軍を合わせ、歩兵3千と騎兵1千を戦力に加えた。

 4月15日、第4師団が、オリベンザを占領し、ベレスフォード将軍は、バダホス包囲の任務に取り掛かった。

 しかし、ベレスフォード及び、ウェリントンは、遠征に攻城部隊を伴っておらず、バダホスの要塞から、様々な性能、年代の大砲を持ってくることによって、解決することにしたが、その結果、連合軍の作戦は、更に遅れることとなった。

 ベレスフォード将軍は、攻城部隊不在の作戦の遅れによって、生じた、機会を利用して、イギリス・ポルトガル連合軍を指揮すると、フランス軍をエストレマドゥーラ南部から、掃討し、ラトゥール=モブール将軍は、グアダルカナルへと押し戻された。

 ベレスフォードは、ラトゥール=モブールの行動の監視と共に、エストレマドゥーラに戻る気にさせないよう、イギリス軍騎兵と、ジョン・コルボーン中佐率いる1個旅団及び、スペイン軍の騎兵の分遣隊を残した。

 ウェリントン公爵は、作戦進捗の遅れを懸念して、短期間のみ、ベレスフォードを訪問することにした。

 4月22日、ウェリントン公爵及び、とベレスフォード将軍は、バダホスの偵察を行い、ウェリントン公爵は、北へ行く前に、ベレスフォードに、包囲及び、今後の戦役の行動の、詳細な指示を準備した。

 5月3日~5月5日のフェンテ・デ・オノーロの戦いにおいては、マッセナ元帥は、ウェリントン公爵に勝利を治めた。

 しかし、マッセナ元帥は、部下のべシェルの協力を得られなかったため、勝利に乗じての追撃が、不可能となった。

 5月10日、マッセナ元帥は、遂に罷免され、マルモン元帥とポルトガル遠征軍の指揮を交代した。

 マッセナは、ポルトガルでの戦闘にて、2万5千人の兵員を失い、フランスに帰国することになったのである。