紀元前226年の秦による、燕への総攻撃は、秦の将軍、王翦、王賁、李信が、指揮した。

 燕王喜は、趙の亡命政権である、代国の代王嘉と同盟を結び、秦軍と戦ったが、国都の薊の陥落後、燕王喜と太子丹は、遼東へと逃れた。

 その際、李信は、数千の兵の進軍を指揮し、燕軍を追撃すると、衍水において、燕軍に勝利している。

 燕王喜は、代王嘉の勧めに従い、衍水の太子丹に使者を送って、殺害し、その首を秦王政に差し出した。

 その結果、前述の通り、秦と燕の和睦が成立した。なお、『キングダム』の主人公は、李信と秦王政である。

 史実では、李信の前半生は、不明であるが、『キングダム』の李信は、下僕の出身で、嬴政と出会い、「天下の大将軍」を目指す。

 正直、筆者は、司馬遼太郎氏の『項羽と劉邦』、本宮ひろし氏の『赤龍王』、宮城谷正光氏の『劉邦』等を読んでいたために、始皇帝に興味がなかった。 

 しかし、『キングダム』は、嬴政と李信の二人が、主人公であるが、李信の方が、圧倒的に出場場面が多く、更に李信、その他の将軍達を『三国志』の豪傑の様に描いているため、非常に面白い。

 戦国七雄の内、韓・趙・燕が、事実上、滅亡し、秦は、隣国の魏の攻略を本格的に行った。

 函谷関の戦いの直後から、秦の攻撃は始まっていて、魏は、敗戦を重ねていたのである。

 紀元前225年、王賁の率いる、60万の秦軍は、魏を攻め、魏は、国都大梁で籠城した。

 当時、楚は、防衛に専念していて、斉は傍観していた。

 そのため、援軍の来る当ては無かった。

 秦軍は、大梁に黄河の水を引いて、水攻めにした。

 魏は、大梁を水攻めされて、3か月は、耐えたが、魏王假は降伏し、魏は滅亡した。

 紀元前230年に、韓を滅ぼした後、わずかに、三年の間で、秦は、趙・魏・韓の三晋を滅亡させ、中原を支配したのである。

 なお、王賁は、戦国四大名将の一人に数えられる、王翦の息子である。

 紀元前225年、秦王政は、楚を滅ぼすために必要な兵数を諮問した。

 李信は、「20万」で、充分であると答えた。

 一方、王翦は、「60万」が、必要だと答えた。

 政は、王翦が耄碌したと捉えて、李信の案を採用して、楚への侵攻を命じた。

 なお、秦王政が、王翦を「耄碌」と考えたことによって、王翦が、老齢であったことは、明らかである。

 李信は、秦の総兵数、20万を二つの部隊に分け、李信は、平輿で、蒙恬は寝丘で、楚軍に勝利した。

 更に、李信と蒙恬は、楚の国都の郢周辺を攻めて、再度、楚軍に勝利している。

 李信と蒙恬は、城父にて、合流したが、秦の郢陳において、叛乱が発生し、退路を断たれた、秦軍は、楚の項燕の奇襲により、二つの城壁が破られ、7人の都尉を失った。

 秦軍は、全軍壊滅し、李信と蒙恬は、敗走した。

 秦の郢陳は、昌平君の支配下にあった。

 前述の通り、昌平君は、楚の考烈王と秦の昭襄王の娘の間に生まれた、息子である。

 その後、昌平君は、呂不韋に仕えたが、前述の通り、紀元前237年、呂不韋が、相国を罷免された後、嫪毐の反乱を鎮圧した、功績によって、秦の右丞相となった。

 紀元前226年に、楚攻略に必要な兵数を巡っての議論によって、秦王政が、王翦の将軍を罷免した際に、昌平君は、秦王政を諌めたために、斉の怒りを買って、丞相を罷免された。

 また、秦は、紀元前230年に滅ぼした、韓の旧都新鄭で、韓の旧臣による叛乱が起きたため、叛乱を鎮圧すると韓王安を処刑して、完全に滅ぼした。