スールト元帥は、マッセナ元帥が、病気、飢餓、そして、尋常でない、冬に悩まされて、崩壊した、軍隊を率いて、ポルトガルから、退却したことを、学習していた。

 そのため、包囲の強行を不安視していた。

 イギリス軍が、自由になり、バダホス解放のため分遣隊を送ることを懸念して、降伏を要請したのである。

 3月11日、イマス准将は、正式に降伏し、フランス軍は、要塞を占領した。3

 月12日は、ヴィクトール元帥が、バロッサの戦いにおいて、スペイン軍に敗北した。

 スールト元帥は、その報告が届くと、ヴィクトール元帥による、カディスの包囲が、維持されているかが、心配になり、バダホスを出発し、アンダルシアへ戻った。

 スールト元帥が、3月20日にセビリアに到着すると、ヴィクトールのカディスの包囲は、維持されていたために、アンダルシアが、未だ、フランス軍の支配下にあることを知り、安堵した。

 スールトは、出発前に、モルティエ元帥の指揮下のフランス軍の1万1千人で、バダホスを守備することにより、エストレマドゥーラでの戦果を強固にしていた。

 一方、マッセナ元帥は、半島における、帝国元帥、将軍を掌握できず、2月17日には、ウェリントン公爵の軍勢への攻撃の延期を余儀なくされた。

 3月4日に、マッセナ元帥は、ネイ及び、スールトの十分な支援が、得られないため、ポルトガルからの退却を決意する。前述の通り、病気、飢餓、そして、冬が、スールトの軍勢を崩壊させていた。

3月13日、ネイ元帥は、レディナにおいて、イギリス軍に勝利するが、マッセナ元帥に援軍を要請しなかった。

 3月23日、ネイ元帥は、マッセナ元帥に逆らい、横柄な態度で、ジュノー将軍に対し、スペイン戦線を確保するため、コインブラを放棄するように強く、要請した。

 マッセナ元帥は、ネイ元帥の指揮権を取り上げた。

 1811年に入ると、イギリスの増援部隊が、到着し、盟軍は、再度、増強されて、攻勢に転じた。

 イギリス・ポルトガルの連合軍は、スールト元帥のバダホス包囲を知ると同時に、マッセナ元帥の脅威が、スペインへの撤退により、低下したことから、ウェリントンは、バダホスの攻囲を解くため、第2師団及び、第4師団を送る、準備をした。

 ベレスフォードの将軍指揮下の第2、第4師団への命令は、最初、3月8日に出されたが、翌日、マッセナ元帥が、トマールで戦いに挑んだとの誤った、報告を受けて、撤回された。

 ベレスフォードの2個師団の再編成により、更に遅れが生じて、3月15日、救援部隊が、バダホスへ急行するよう命令された。

 しかし、前述の通り、バダホスは、3月11日に、既に、スールト元帥に降伏していた。

 ウェリントン公爵は、バダホスの降伏の報告を受けたために、ベレスフォードの遠征隊の緊急度は、低下した。

 スールト元帥が、アンダルシアに戻った後に、バダホスの守備隊を指揮する、モルティエ元帥は、イギリス・ポルトガル連合軍の遅れを利用した。

 モルティエ元帥は、要塞の守備に6個大隊を残し、3月初めに7千人の兵及び、バダホスに駐留していた、攻囲部隊から、3個砲兵隊を借りた。

 モルティエ元帥は、部隊を率いて、近隣のポルトガルの町である、カンポ・マイオルへと進軍したのである。