紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。

 紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。

 韓王安は、捕虜となり、韓は、遂に滅亡した。韓の国土は、秦の潁川郡となった。

 戦国の七雄の一つ、韓は、最弱国であったが、趙・魏との晋の分割から、226年間続き、韓虎以後、十三代目の韓王安にして、滅びたのである。

 秦の将軍、内史騰は、内史は、官名であるが、姓氏は不明であり、内史騰と呼ばれている。

 韓が、南陽を秦に割譲すると、内史騰は、南陽の仮郡守となり、その翌年に韓を滅ぼした。

 なお、『キングダム』では、開始時点では、六大将軍の一人、王騎の副官として、登場する。

 王騎の死後、秦の将軍となり、無類の強さを見せることになる。

 紀元前229年、秦王政は、趙攻略のため、王翦を将とし、羌瘣及び、楊端和と共に大軍を趙に侵攻させた。

 趙は、斉との連合の情報が漏れ、旱魃、地震災害に付け込まれたのである。

 趙の幽繆王は、李牧と司馬尚に応戦させた。

 王翦は、苦戦すると、李牧を排除するために、幽繆王の寵臣、郭開に賄賂を贈って、幽繆王と李牧との離間を画策した。

 郭開は、幽繆王に、「李牧と司馬尚が、謀反を企てている」と讒言した。

 更に、幽繆王の母の悼倡后は、秦から、賄賂を受け取り、王に讒言をした。

 幽繆王は、趙の軍事を掌握し、功名の高い李牧を内心恐れていたため、李牧を疑い、郭開と悼倡后の讒言を聞き入れ、李牧を更迭しようとした。

 しかし、李牧は、王命を拒んだ。

 そのため、李牧は、幽繆王によって、密かに捕らえられ、誅殺された。

 同時に、趙の名門の出身の司馬尚が、解任・更迭された。

 戦国四大名将の一人に数えられる、李牧は、奸臣の讒言によって、主君に殺害されたのである。

 趙の幽繆王は、秦王政による、趙攻略開始前に、魏に亡命した、廉頗の許に使者を送って、帰参を許そうと図った。

 廉頗は、年老いていたが、「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」と言われるほど、元気な姿を使者に見せて、帰参を承知した。

 しかし、廉頗が、趙にいた頃から、不仲だった、奸臣の郭開の謀略で、使者が買収された。

 趙の幽繆王が、使者に対し、廉頗の様子を伺うと、「三度遺矢(使者と会談中に3度、小用に立ったとの意)」と讒言した。

 そのため、幽繆王は、廉頗が高齢で使いものにならないとし、諦めたとされる。

 郭開は、戦国の四大名将、李牧と廉頗の二人を趙の王に讒言したのである。

 廉頗は、後に楚に亡命し、将軍に任命されず、功を立てることはなく、寿春で、病没した。

 戦国の四大名将は、白起は、主君によって、自害に追い込まれ、李牧は、主君により、誅殺された。

 そして、廉頗は、不遇の晩年を送った。

 趙は、四大名将の内、二人がいたが、李牧及び、廉頗は、郭開に讒言された。

 趙を滅ぼしたのは、奸臣の郭開であると同時に、郭開を寵愛し、讒言を信じた、愚かな幽繆王自身であったと言える。

 幽繆王は、趙葱・顔聚に軍を率いさせ、秦軍を迎え撃ったが、敗北し、趙葱は戦死した。

 紀元前228年、趙の国都、邯鄲が、遂に陥落した。

 前述の通り、秦王政は、父の荘襄王が、趙の人質の時代に、邯鄲で、生まれた。

 秦王政は、秦を恨む、趙の人々により、常に危険に晒されていた。

 邯鄲の陥落後、秦王政は、自身の誕生地の邯鄲に入ると、母の太后の実家と揉めていた、趙の人々を生き埋めにして、帰国したとされる。