『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。

 韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、幼少時代、王安及び、横陽君成を含む異母兄弟から、「吃非」と呼ばれて見下され続けていた。

 しかし、非常に文才に長け、書を認める事で、自分の考えを説明するようになった。

 韓非は、荀子の許を去った後、故郷の韓に帰り、韓王に度々、建言するが、容れられずに鬱々として、過ごさねばならなかった。

 韓非の建言は、韓が、弱小国であったためである。

 戦国時代末期になると春秋時代の群小の国は淘汰され、「戦国七雄」と呼ばれる、七国が、生き残る状態になっており、その内、秦が、最も強大であった。

 紀元前260年の長平の戦い以降、秦の強大化傾向は、決定的になっており、中華統一は、時間の問題であった。

 韓非の生国、韓は、秦の隣国で、「戦国七雄」の最弱の国であった。

 更に、韓は、秦に入朝して、秦に貢物及び、労役を献上することは、郡県と全く変わらない、状態にあった。韓は、事実上、秦の属国であった。

 韓非は、故郷の韓が、秦に併呑される、勢いでありながら、用いられない、我が身を嘆き、自身の思想を形にして、残そうとしたのが、現在、『韓非子』と呼ばれている、著作である。

 前述の通り、韓非は、生まれつき、重度の吃音であったため、書を認める事で、自分の考えを説明していることが、『韓非子』の執筆の一因であったと考えられる。

 韓非の生涯において、転機となったのは、秦への使者となったことであった。

 秦において、李斯の上奏により、属国でありながら、面従腹背の常ならぬ、韓を郡県化すべしとの議論が起こっており、韓非は、その弁明のために韓から、派遣されたのである。

 秦王政は、以前に韓非の文章を読んで、敬服するところがあった。

 秦王政は、この時、韓非を登用しようと考えたが、李斯は、韓非の才能が、自分の地位を脅かすことを恐れて、秦王政に讒言した。

 そのため、韓非は、牢につながれ、獄中、李斯が、毒薬を届けて自殺を促し、韓非は、李斯に従って、毒を飲み、自殺したとされる。

 李斯は、自身の地位の保全のために、同門の韓非を殺害したと言える。

 また、当時、秦は、既に最強国となっており、秦の動向を探るための各国密偵が、暗躍し、外国人の立身出世に対する秦国民の反感など、秦国内で、外国人対する、警戒心、排斥心が、高まって、「逐客令」が発令されたため、韓非は、「外国人の大物」として、犠牲にされたとの経緯がある。

 別説では、韓非が、秦の重臣姚賈を讒言したために誅殺されたと伝わる。

 韓非は、優れた才能を有し、後世に残る著作を記したが、結果、同門の李斯の妬みを買い、事実無根の汚名を着せられて、自殺に追い込まれた。

 司馬遷は、『史記』の「韓非子伝」を、「説難篇を著して、君主に説くのがいかに難しいかを言いながら、自分自身は、秦王に説きに行って、その難しさから、脱却できなかったのを悲しむ」と結んでいる。

 秦王政は、魏出身の尉繚の意見を採用して、他国の人間を買収すると、様々な工作を行う、手段を用いた。

 尉繚は、一度は、職を辞したが、留め置かれて、軍事顧問となった。

 尉繚の著書と言われる、『尉繚子』は、『孫子』『呉子』『『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』と並ぶ、中華史上の「武経七書」の一つに数えられる。