スールト元帥は、フランスのナポレオンから、マッセナ元帥への援軍要請を受けたが、ナポレオンの命令は、古い情報に基づいていたため、小部隊を送るのみとの命令であった。

 スールト元帥は、既に、ポルトガルのリスボンへの攻撃を成功させることは、命令された、小部隊では、不可能であることを理解していた。

 スールト元帥の軍勢とリスボンの間には、イギリス・ポルトガル連合軍の3万人及び、六つの大きな要塞があった。

 スールト元帥は、その状況でさえ、なお、皇帝の命令に従い、何か行動を起こさなければならないと感じていた。

 スールト元帥は、第5軍団から、2万人の兵を集め、バダホスの要塞を占領しようとした。

 同時に、スールト元帥は、可能な限りの数の連合軍の兵士を要塞線の堅固な守りから、引き離すという限定的な狙いを持った、エストレマドゥーラへの遠征を開始したのである。

 遠征軍は、自身の指揮下の第5軍団の他、カディスを包囲中のヴィクトール元帥の率いる、第1軍団から、歩兵及び、騎兵を引き抜いた。

 スールト元帥は、第5軍団が、抜けた穴を埋めるために、ヴィクトール元帥に対して、兵士を更に、要請したが、約2万6千人のイギリス・ポルトガル連合軍が、守備している、カディスを1万5千の軍勢のみで、攻めることになる。

 そのため、ヴィクトール元帥自身の部隊が、弱体化するため、ヴィクトールは、激しく、反対した。

 1811年1月15日、マクドナルド元帥は、カタルーニャのバルスにて、進撃を阻まれた。

 エストレマドゥーラへの戦役の成功に続いて、1811年1月27日、スールトは、バダホスの包囲を開始した。

 その直後には、メンディサバル将軍の率いる、エストレマドゥーラのスペイン軍、1万5千人が、付近に到着した。

 スールト元帥の軍勢のみでは、バダホスを包囲するためには、兵力が、過少であった。

 メンディサバルが、3千人の兵士を要塞の増援に送り、残りは、サン・クリストバルの丘に布陣するのを、スールト元帥は、防ぐことができなかった。

 この状況は、フランス軍には、大きな脅威であり、スールト元帥は、即座に移動し、攻撃を開始した。

 スールト元帥のフランス軍は、メンディサバル将軍のスペイン軍と、ゲボラの戦いにて、激突して、スールト元帥が、勝利を治めた。

 ゲボラの戦いの結果、フランス軍は、400人の損害のみであったが、スペイン軍に1千人の損害を与え、更に、4千人,を捕虜としているメンディサバル将軍の残兵は、バダホス及び、ポルトガルへ敗走した。

 スペイン軍のラファエル・メナチョ将軍の指揮する、バダホスの守備隊は、スールトの軍勢に対し、当初、激しく、抵抗し、3月3日時点では、フランス軍は、堅固な要塞に対し、前進していたのは、わずかな距離のみであった。

 しかし、3月3日、メナチョ将軍は、城壁の上において、流れ弾に当たり、戦死した。

 メナチョ将軍の代わりに、バダホスの守備隊は、ホセ・イマス准将が、指揮を執った。

 しかし、スペイン軍の防御は、弱まり始めた。

 3月10日に、ようやく、城壁が破られると、スールト元帥は、イマス准将に軍使を送り、守備隊の降伏を求めたのである。