紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。

 その功績によって、秦王政から、昌文君に封じられると、秦の左丞相となった。

 甥の公子啓は、紀元前271年、前年に春申君と共に秦に人質として、秦に入っていた、楚の太子完と昭襄王の娘の間に生まれた。

 紀元前263年、春申君が、太子完を楚に逃がすと、公子啓は、楚の孝女である、華陽夫人に養育された。

 荘襄王元年、即ち、紀元前249年、公子啓は、秦の朝廷に出仕する。

 そして、紀元前246年、秦王政の時代に御史大夫となり、呂不韋を補佐した。

 そして、嫪毐が背くと、叔父の昌文君と共に鎮圧した。

 公子啓こそが、昌平君である。

 紀元前237年、秦王政は、呂不韋の相国を罷免し、嫪毐の反乱を鎮圧した、功績によって、昌平君を右丞相にした。

 即ち、呂不韋の罷免後、秦の左右の丞相は、楚の頃襄王の息子及び、楚の考烈王の息子であった。

 秦王政の親政開始時点において、秦の政治は、楚の二人の公子に委ねられることになったと言えるが、秦王政は、賢明であった。

 秦王政の親政開始の年、灌漑工事の技術指導のために招聘されていた、韓の鄭国が、実は、国の財政を疲弊させる、工作を図っていたことが、判明した。 

 秦の大臣達は、危機感を抱き、他国の人間を政府から追放しようとする、「逐客令」が提案された。

 その「逐客令」に反対を表明した者こそが、楚の出身の李斯である。

 李斯は、「逐客令」が発布されれば、地位を失う、位置にあった。

 しかし、李斯は、秦の発展は、外国人が支え、穆公は、虞の大夫であった、百里奚及び、宋の蹇叔等を登用して、孝公は、衛の公族だった商鞅から、恵文王は、魏出身の張儀から、昭襄王は、魏の范雎から、各々、助力を得て、国を栄えさせたと述べた。

 秦王政は、李斯の主張を認めて、「逐客令」を廃案とした。李

 斯は、楚の上蔡の出身で、若くして、地元の小役人になった。

 その頃、李斯は、役所の便所に住む、鼠を見た。

 便所の鼠は、常に人及び、犬に怯えて、汚物を食らっている。

 また、李斯は、兵糧庫の鼠を見た。兵糧庫の鼠は、粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。

 李斯は、「人の才不才等、鼠と同じで、居場所が全てだ」と嘆息した。

 そして、楚の役所を辞めると、儒家の荀子の門を叩いた。

 学を修めた後は、秦に入って呂不韋の食客となり、才能を評価され、推薦を受けて秦王政に仕える、近侍になった。

 更に秦王政の命令で、他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い、功績を立て、客卿となった。

 紀元前237年、前述の通り、他国出身の嫪毐の叛乱及び、鄭国の財政悪化策が、発覚し、「逐客令」が出た。李

 斯は、事態に苦慮し、秦王政に嘆願書を出し、追放令の撤回を求めた。

 李斯の『諫逐客書』は、実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されている。

 秦王政は、李斯の名文に感じ入り、追放令の撤回を決め、李斯を厚く、信頼した。

 李斯は、前述の通り、性悪説の荀子に学び、人間は、環境に左右されるとの思想を持った。

 秦は、孝公の時代の商鞅の改革以来、「法」を重視し、その結果、秦は、辺境の弱小国から、戦国時代、隋一の大国に成長していた。

 秦王政は、「法」の思想を引き継いでいたために、同じ思想を説いた、『韓非子』に感嘆したのである。