1810年4月17日、ナポレオンは、マッセナ元帥をポルトガル軍最高司令官に任命した。
5月10日、マッセナは、スペインのバヤドリッドにおいて、司令官職に就任する。
しかし、マッセナと共に、ポルトガルに派遣された、ネイ元帥及び、ジュノー将軍に嫉妬された。
ジュノーは、半島戦争の1808年に、屈辱的なシントラ条約を締結させられていた。
ネイは、マッセナと同様、帝国元帥であるため、同等の立場にあり、マッセナの指揮下に入ることに、不満があることは、当然であった。
ジュノー将軍は、1807年に始まった、半島戦争の最初のポルトガル侵攻を指揮し、「アブランテス公爵の」称号を授与され、一時、ポルトガル遠征軍司令官であったために、マッセナに嫉妬していた。
マッセナ元帥は、7万人の軍勢を率いており、ウェリントン公爵は、3万のイギリス軍、5万のポルトガル軍の総勢8万の連合軍を率いていた。
両軍の戦端は、コアの戦いにおいて、開始された。
ネイ元帥は、スペインのシウダ・ロドリーゴ及び、アルメイダを占領した。
その後、マセナ元帥は、「ポルトガルで、最悪の道」を辿った。
9月27日には、マッセナ元帥は、ブサコの戦いにおいて、有利な位置にいたが、戦術が、不注意であったため、ウェリントン公爵に敗北を喫した。
しかし、マッセナは、その翌日の9月28日、イギリス・ポルトガル連合軍を、トレス・ベドラス線まで、撤退させることに成功する。
10月1日には、マッセナは、ポルトガルのコインブラを占領した。
10月8日、ウェリントン公爵は、トレス・ベドラスの要塞線を構築すると、リスボンへのルートを遮断する、要塞線に立て籠もった。
要塞線は、数十キロに及ぶ、並行の三つの塹壕戦に、数百門の大砲を装備した、堡塁が、構築された。
10月14日のソブラルの攻撃後、トレス・ベドラスの要塞によって、戦況は、膠着状態に陥った。
イギリスの軍事歴史家、チャールズ・オマーンは、「10月14日の濃霧の朝、ソブラルで、『ナポレオンの潮』が、最高潮に達し、そして、引き潮が、始まった」と記述している。
ポルトガル人は、前線において、焦土作戦の対象となった。
フランス軍は、補給路の欠如、疾病に陥り、マッセナ元帥は、ナポレオンに援軍を要請した。
ソブラルの攻撃後、マッセナは、損害を避けるため、総攻撃を行わず、塹壕を掘って、持久戦に入った。
マッセナ元帥のフランス軍は、一カ月程度、塹壕に駐留したが、その後、サンタレンとリオ・マイオルの間へと後退した。
マッセナの退却後、ウェリントン公爵は、ヒル中将の指揮下のイギリス軍の第2師団にポルトガル軍2個旅団及び、竜騎兵の舞台を編成し、マッセナとフランスの南方方面軍を率いる、スールト元帥のアンダルシアからの攻撃の可能性から、アレンテージョの平原を守るために、イベリア半島中央部を西に流れる、タホ川を西に超えさせた。
当時、ナポレオンは、ロシアのアレクサンドル1世と緊張状態にあり、ロシアとの戦争に備えていた。
即ち、ナポレオンには、フランス本国から、ポルトガルに援軍を派遣する、兵力の余裕が、無かったと言える。
ナポレオンは、スペインのスールト元帥に、マッセナの援軍に向かうように急報していたが、既に、マッセナは、退却していたのである。