秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。

 龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、「ヤマドリの羽根の冠をつけた先生」の許、学問を学んだ。

 龐煖の師及び、王侯との対話が、道家の書、『鶡冠子』全十九篇の内、七篇に収録されている。

 龐煖は、道家出身ではあるが、若年の頃から、軍事に強い興味を持っていたようであり、師への質問は、天と武の関係を問うものが多い。

 趙人の劇辛が、龐煖は、燕の昭王に仕える以前に親しくしていた。

 劇辛からは、人となりを「与し易きのみ」(とても親しみやすい)と評され、縦横家としての著書も執筆するなど、弁舌に長けていた。

 龐煖は、ある時、趙の武霊王に召しだされ、「戦わずして勝つ者こそ最善である」という、孫子の兵法について、意見を問われて、兵家と道家の両方の知識を用い、解説を行っている。

 龐煖の会見との前後は不明だが、実際に武霊王は、国の後継者争いに介入し、「胡服騎射」の軍制改革を行ったりすることで、趙を軍事大国としている。

 『鶡冠子』の武霊王篇に掲載されている、龐煖の弁論は、以下の内容である。

 武霊王が、「流言飛語に聞くところでは、『百戦して、勝つは善の善なるものにあらず、戦わずして、勝つことこそ善の善なるものなり』等と言われるが、その解釈をお聞かせ頂きたい。

 なお、『孫子』に、同一の文があるが、武霊王は、を風聞の類として扱っている。

 龐煖は、「巧みな者は、戦争に与しないことを貴ぶために、『計謀』を大いに上策として、用いるのでございます。

 その次が、『人事』に因ることです。そして下策が、『戦克』です。

 所謂、『計謀』を用いるとは、敵国の君主を眩惑し、習俗を淫猥に変更させて、慎ましさを捨て驕って、欲望のままにさせることです。

 そうすれば、聖人の理は無くなります。

 人を贔屓して、親しくし、功績がないのに爵位を与え、勤労がないのに賞与を与え、機嫌のいい時は、勝手に罪を許し、怒れば根拠なく人を殺し、民を法律で縛っておいて、自身は、慎ましやかな人とうそぶき、小人なのに自身を徳の至った者と見なし、無用の長物を頻繁に用いて、亀甲占いに没頭し、高徳の道義が、意中の人よりも下になります。

 所謂、『人事』に因るとは、賄賂として、幣帛を連ね、貨財を用いて繰り返し、側近の口を抑え、そうである所を全くそうではない、そうではないところを全くそうであると言わせ、君主から、離反する際に忠臣の道を用いさせることです。所謂、『戦克』(戦って勝つ)とは、元から、既に衰え切った国に、軍隊が進行して攻めるものです。

 越王の勾践は、『戦克』を用い、呉を亡ぼし、楚は、陳と蔡を悉く、平らげました。

 更に、趙・魏・韓の三家は、『戦克』を用いて、政敵の智氏を亡ぼし、韓宣子は、これを用いて、東方にある、政敵の祁氏・羊舌氏の地を切り分けました。

 今、世間の者達は、軍事について、『すべて、強大な国が、必ず勝ち、小弱な国は、必ず滅ぶ。

 そのため、小国の君は、覇王者になれないし、万乗の主(一万の戦車を持つ大君主)は、滅びない』等と主張します。

 しかし、過去には、夏は、広くて、湯王の殷は、狭く、殷は、大きくて、周は小さく、呉は、強くて、越は、弱かったものでした。

 しかし、小国のはずの殷、周、呉が、最終的に、大国の前者に勝ちました。