秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。

 李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。

 李牧は、国境防衛のために独自の地方軍政を許され、匈奴に対して、備える任についていた。

 李牧は、警戒を密にし、烽火台を多く設け、間諜を多く放つなどし、士卒を厚遇していた。

 李牧は、匈奴の執拗な攻撃に対して、徹底的な防衛及び、籠城の戦法を採ることによって、大きな損害を受けずに安定的に国境を守備していた。

 李牧は、兵士達に対して、「匈奴が、略奪に入ったら、即座に籠城して、安全を確保すること。

 敢えて、城から、討って出た者は、斬首に処す」と厳命していたのである。

 しかし、李牧の方針は、匈奴のみならず、趙兵にさえ、臆病者であると思われてしまう。

 趙王は、李牧の方針を不満に思い責めたが、李牧は、防衛・籠城の方針を改めなかったので、任を解かれた。

 李牧の後任者は、匈奴の侵攻に対し、勇敢に討って出た。

 しかし、かえって、被害が増大し、趙の国境は、匈奴に侵されたのである。

 そのため、趙王は、過ちに気付き、李牧に任を請うたが、李牧は、門を閉じて外に出ず、病と称して固辞した。

 しかし、超王は、李牧を将軍に起用したので、「王が、どうしても、私を将軍にしたければ、前の方針を変えないようにさせて下さい」と言い、これを許された。

 そして、李牧は元通り、国境防衛の任に復帰することになった。

 その後のある日、匈奴の小隊が、偵察に来た時、李牧は、数千人を置き去りにして、偽装の敗退を行い、敢えて、家畜を略奪させた。

 匈奴は、味をしめて、単于自身が、大軍の指揮を執って、攻め寄せたが、李牧は、伏兵を置き、左右の遊撃部隊で、巧みに挟撃し、匈奴軍を討った。

 その結果、匈奴は、十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。

 その後、李牧は、更に襜襤(せんらん)を滅ぼし、東胡を破り、林胡を降したため、匈奴の単于は、敗走し、匈奴は、その後、十余年は、趙の北方を越境して来なくなったのである。

 紀元前243年、李牧は、趙の悼襄王の命によって、燕を討ち、武遂及び、方城等に侵攻した。

 前述の通り、当時の趙は、斜陽の時代に入っていた。

 趙は、閼与の戦いにおいて、秦に勝利した、名将の趙奢を亡くし、更に政治外交によって、秦に対抗し得た、藺相如が病で伏せていた。

 紀元前260年に長平の戦いでは、秦に大敗し、その後、藺相如が、世を去り、衰亡の一途をたどっていた。

 また、紀元前245年に、廉頗が、楽乗と争い出奔したため、秦の侵攻が激しくなった。

 趙は、紀元前236年に、鄴が、秦に奪われ、紀元前234年には、趙将の扈輒の指揮する、軍勢が、平陽にて敗北すると、10万人が犠牲になった。

 平陽の戦いである。そのため、趙の幽繆王は、李牧に軍を任せて、反撃に転じることにした。

 紀元前233年、李牧は、北辺の功を認められ、幽繆王の命により、中央に召還され、大将軍に任じられた。

 『キングダム』では、紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として、五カ国の合従軍を組んだ際、事実上の指揮官を李牧としている。

 前述の通り、趙は、長平の戦いで、四十万の兵を生き埋めにされたため、秦への恨みが深く、実際の盟主であったと考えられる。