ベルナドット元帥は、既に、ハノーファー及び、ハンザ都市同盟の総督時代に、広範囲の優れた、管理能力を示していたが、アウグステンブルク公には、備わっていなかった。

 1809年のクーデター後の憲法改正によって、スウェーデン王国は、絶対君主制を廃したが、スウェーデン人は、国家を牽引する、強力な君主を欲していたのである。

 ナポレオンは、ベルナドットのスウェーデン王位継承者決定を、公の場では、「フランス帝国の誉れある、業績にして、栄光の拡張」と祝っていた。

 しかし、オーストリア外相のメッテルニヒには、ロシアとの関係悪化に繋がること、平民出身者の王位就任は、既存の君主国に悪影響を及ぼすこと等の不平を言っている。

 ナポレオンは、他国の決定に介入はできないと考えていたが、カール13世が、早くに、相談して、欲しかったと思っていた。

 カール13世の側近、シュルマンは、ベルナドットの選出へのナポレオンの影響に関して、「消極的かつ不本意なものだった」と述べている。

 スペイン王ジョゼフ、ホラント王ルイ、ナポリ王ミュラ等とは異なり、ナポレオンの力に依らず、部下が、王位に就くことは、独立性を与えるという意味において、他の元帥への悪例になることが、危惧された。

 ナポレオンは、ベルナドット元帥のスウェーデン王位継承者決定について、複雑な感情を抱いていたと言われる。

 ナポレオンは、ベルナドットの王位継承者決定が、自身の恩義に預かる者であることを示すために、皇帝一家の食事会に招待し、食事の終わりになって、初めて、ベルナドットの肩書をスウェーデン王位継承者王子であることを告げる手筈になった。

 ベルナドットは、スウェーデンの将軍の軍服を纏って、食事に参列し、独立性を印象付けた。

 スウェーデンに向けて、出立する前に、ベルナドットは、フランス人としての国籍及び、義務から、解放する、「証書」をナポレオンから得ようとした。

 ナポレオンは、解放証書に「決して、フランスに武器を向けない」との一文を差し込もうとした。

 しかし、ベルナドットは、スウェーデン王太子として、選任された以上、自身を外国に隷従させる、如何なる、取り決めも、受け入れることは出来ないと抗議した。

 最終的に、ベルナドットは、ナポレオンに対し、「陛下、私に王冠を拒絶させることによって、自身を上回る人間にしたいのですか?」と言った。

 それに対して、ナポレオンは、「ならば行け!各々の運命を、完遂しようじゃないか」と返答したと言われる。

 ベルナドットは、9月30日に、パリを出立すると、10月30日には、スウェーデンのドロットニングホルム宮殿にて、国王及び、王妃と初対面を果たした。

 スウェーデン王と王妃は、当初、ベルナドットの王太子選出を渋ったが、初対面にて、即座に魅了された。

 カール13世は、側近に「これは危ない賭けだと思った。だがわかった。私は、その賭けに勝ったのだ」と言ったと伝えられる。

 11月2日、ベルナドットは、ストックホルムに到着し、5日、カール13世の養子となる、宣誓式を行い、名前をカール・ヨハンに改めた。

 ナポレオンに対抗した、共和政主義者のベルナドットが、後にスウェーデン王になったことは、運命の皮肉であろう。