紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。

 曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽孫であるが、わずか、四年後に秦の王位を継承したのである。

 即ち、祖父の孝文王及び、父の荘襄王を間に挟んでいるが、秦は、事実上、二代続けて、名君を得たと言える。

 前述の通り、秦の父の異人は、人質として、趙へ送られていた。

 商人の呂不韋は、「異人」を「奇貨居くべし」と考えて、安国君の後継者にすることに成功する。そ

 の後、異人、即ち、子楚は、父の安国君が、孝文王として、即位すると、子楚は、太子となり、秦に帰国する。

 子楚の息子の政は、子楚の人質時代、趙において、趙姫との間に生まれたのである。

 なお、政は、後に皇帝に即位したため、諡名は、「始皇帝」であり、王号の諡名はない。

 そのため、本作では、中華を統一し、皇帝即位以前の政は、「秦王政」と呼ぶことにする。

 秦王政は、即位時、十三歳であったため、荘襄王の時代の丞相、呂不韋が、引き続き、政務を執った。

 呂不韋は、事実上の独裁者となり、丞相の上の「相国」に昇った。

 紀元前245年、秦の将軍、麃公は、魏の巻を攻め、3万の首を斬った。

 紀元前244年には、秦の将軍、蒙驁が、韓を攻めて、13城を取った。

 更に、蒙驁は、紀元前242年、魏を攻め、酸棗等の20城を奪い、平定して、秦は、東郡を置いた。

 その結果、秦は、趙・魏・韓・楚の四カ国と直接、国境を接するようになったのである。

 紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために、総大将を楚の考烈王、総司令を春申君として、合従軍を組んだ。

 しかし、実際の合従軍の盟主は、趙との説がある。

 そして、策戦立案は、戦国四大名将の一人に数えられる、李牧が行っていた、可能性がある。

 その理由として、楚は、同年に郢から、寿春に遷都したことが挙げられる。

 そのため、楚は、合従軍に対して、大軍を送ることが不可能であったと考えられている。

 趙は、長平の戦い及び、邯鄲の戦い等、度々、秦に対して、敗戦を重ねていた。

 更に趙兵の40万を生き埋めにされたため、秦への恨みが深かった。

 五国の合従軍は、秦の寿陵を取り、函谷関を攻撃した。

 合従軍に対して、秦軍は、函谷関で迎え撃った。

 函谷関で秦軍の指揮を執った、将軍は不明であるが、蒙驁との説が、有力とされている。

 紀元前241年の合従軍では、紀元前318年の函谷関の戦い、紀元前298年の河外の戦いと異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた。

 趙の龐煖が、総大将として、趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて、蕞を攻めたが、陥落させることに失敗している。

 蕞は、秦王都の咸陽に近く、秦は、滅亡の危機に陥っていた。

 函谷関では、秦軍の反撃に対して、合従軍は、敗北した。

 五国の合従軍は、函谷関から、撤退すると、秦の味方である、斉を攻撃し、饒安を占領して、解散したのである。

 紀元前241年の函谷関の戦いは、中華の戦国時代において、秦を攻撃した、最後の合従軍による戦いである。

 函谷関の戦いの以降、六国は、秦による、併合に抵抗する、軍事力がなかった。

 そして、戦国の七雄の内、趙・魏・韓・斉・燕・楚の六国は、秦に滅ぼされることを待つことになる。

 最早、六国は、名君は、出現しなかったが、趙には、軍事的天才の李牧が、出現している。

 戦国四大名将は、秦の将軍の白起と王翦、趙の将軍の廉頗と李牧であった。