斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。

 前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の魏無忌及び、楚の春申君は、黄歇であるため、春申君のみが、王公族の子孫ではない。

 孟嘗君、信陵君、春申君については、既に述べたため、時代を遡り、平原君について、詳述する。

 平原君が、片足を引き摺っていた、食客を笑った、側室を殺害したこと、徴税官の趙奢を恵文王に推薦し、魏の宰相、魏斉を匿うことを躊躇ったことについては、既に述べている。

 紀元前263年、韓は、秦に攻められて領土を奪われ、韓の北の領土である上党が、孤立した。

 平原君は、上党の民が、趙へ帰属したいとの願いに応じることを孝成王に勧めた。

 紀元前259年、長平の戦い後、秦軍は、趙の首都の邯鄲を包囲した。

 趙の孝成王は、窮地に陥ったため、平原君を楚に派遣し、楚に救援を求めた。

 平原君は、連れて行く、食客二十人を選んでいたが、難事であるため、厳選したこともあり、最後の一人が決まらない。

 その際、食客の一人の毛遂が、同行したいと名乗り出てきた。

 平原君は、「賢人は、錐を嚢中(袋の中)に入れて、置く様なもので、即座に袋を破って、先を出してくるものです。

 先生が、私の所へ来て、3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい」と断った。

 毛遂は、「私は、今日こそ、嚢中に入りたいと思います。私を早くから、嚢中に入れておけば、先どころか、柄まで出ていましたよ」と答えた。

 平原君は、その返答が気に入ったため、毛遂を連れて行くことにした。

 この逸話こそが、「嚢中の錐」の原典である。

 平原君は、楚に入ると、楚の考烈王に趙との合従を説いたが、楚は、以前に秦に侵攻され、辛うじて、講和できたため、秦を脅威に思い、纏まらなかった。

 毛遂は、剣を握って、考烈王の前に立った。

 毛遂は、「楚と趙が、結べば有利。結ばなければ不利。それほどの簡単なことが、何故、決まらないのですか」と聞いた。

 考烈王は、その無礼さに激怒したが、毛遂は、「楚王様が、私に強く言えるのは、腕利きの兵が側にいるからでしょうが、ここからでは届きませんぞ」と返すと、「我が君の前で、私を辱めた理由を聞かせて頂きたい。

 楚は、四千里四方を有し、秦に対抗できるのは楚しかありますまい。

 しかし、白起が軍を率いたのみで、都を奪われ、祖廟を焼かれました。

 それを恥と思わないのですか。

 合従は、趙のためではなく、楚のためである」と説き、考烈王は、その意見を受け入れた。

 平原君は、それに喜んで、帰国後に毛遂を上客とした。

 平原君は、「毛遂先生の弁舌は、百万の兵に勝った。

 これほどの人物を見極められない、私などは、もう人を論じるまい」と言った。

 紀元前258年、魏の考成王は、秦と戦っていた、趙へと援軍を出していたが、秦に恫喝されたため、途中で留まらせて、情勢を観察していた。

 平原君は、魏の信陵君の姉を妻としていたため、「姉を見捨てるのか」との手紙を出した。

 信陵君は、その手紙に応え、魏の将軍を殺して、軍を奪うと、趙へと援軍に出た。

 また、楚から、盟約に従い、援軍が出た。

 しかし、趙の邯鄲は、援軍が、来る見込みはあったが、長期間の包囲によって、武器は、木を削った、槍程度しかなく、邯鄲の城内の趙の国民は、餓死寸前で、子供を交換し、殺して、食料とせざるを得ない、危機的状況であった。