メルネル中尉は、7月12日に、スウェーデンに帰国したが、独断専行で、スウェーデン王位継承候補者を探したため、地方に左遷させられた。

 しかし、メルネル中尉の計画は、軍部を中心として、徐々に、支持者を集めた。

 特に、メルネル中尉の従兄弟、メルネル伯爵等、リューベックにて、ベルナドット元帥に世話になった、軍人達は、スウェーデン議会で、キャンペーンを行い、次第に、党派を形成するまでに、ベルナドット擁立の支持者を集めていった。

 その頃、パリのベルナドット元帥は、知人の商人、フォーニエに肖像画等を持たせて、自身の代弁者として、スウェーデンに送ることにした。

 7月30日、スウェーデンの都市、エレブルーにおいて、スウェーデン王位継承者問題の議会が、開会された。

 最初に、十二人で構成される、枢密院にて、各候補者を審議後、議会にて、採決を取り、最後に、スウェーデン国王カール13世の承認を経て王位継承者が決定されることになった。

 8月2日の枢密院では、十二人中、十一人が、アウグステンブルク公、ヴレーデ将軍のみが、ベルナドットを支持したため、ベルナドットが、王位継承者になる、見込みは、失われたと思われたが、その頃、フォーニエが、エレブルーに到着した。

 フォーニエが、スウェーデン議会の議員達に向かって、ベルナドットの利点を強調した。

 ベルナドットが、個人資産を、スウェーデン国庫に供出しても、良いと言っていることは、財務大臣の心を動かし、再度、枢密院にて、投票が行われることになった。

 更に、ナポレオンが、デンマーク国王支持のスウェーデン駐在のフランス公使を本国に引き上げさせたため、スウェーデン人達は、ナポレオンが、がベルナドット支持に回ったと解釈したが、ナポレオンの真意は、不明である。

 スウェーデンにおける、ベルナドットを巡る、選挙運動は、首都のストックホルム中を巻き込む、狂騒へ発展する。

 ストックホルム知事は、カール13世に対し、ベルナドットが、選ばれなかった場合、市内の平穏を保つ自信がないと報告した。

 カール13世は、熱狂する、大衆を見ると、議会の採決が、下る前に、ベルナドットを王太子にすることに同意した。

 8月16日、枢密院にて、十人中八人が、ベルナドットを支持し、同月21日の議会では、満場一致で、ベルナドットが、スウェーデンの王位継承者として、採決されたのである。

 スウェーデン軍の一人の中尉に過ぎない、メルネルの独断専行が、軍部を動かし、民衆を熱狂させ、遂に、ベルナドットを王位継承者にしたのである。

 ベルナドットの王位継承者決定には、様々な要因があった。

 アウグステンブルク公は、カリスマ性に欠け、デンマーク王の影響を受ける。

 デンマーク王フレゼリク6世による、王位継承は、事実上、スウェーデンが、デンマークに併合されることになる。

 ロシア皇帝の従兄弟、オルデンブルク公では、フィンランドをロシアから、奪回できないのである。

 1809年当時のスウェーデン王国は、フィンランド等の領土喪失以外に、人口減少及び、財政破綻、軍の弱体化等、問題が、山積していた。

 ロシア公使は、スウェーデンについて、「死にかけている」と言わしめる、未曾有の国難に直面していた。