当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。

 信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対し、会って、話がしたいと使者を出したが、断られた。

 そして、信陵君は、自身、徒歩で、毛公と薛公の許へ趣くと、両者と語り合って大いに満足した。

 しかし、平原君は、その話を聞くと、「信陵君は、名声高いと聞くが、そのような者達と交わるのか」と馬鹿にした。

 信陵君の姉で、平原君の妻が、信陵君を訪れると、信陵君は、出立の準備をしていた。

 信陵君は、「賢人と話をしたいと思い、毛公と薛公が居ないために彼等の許に出向いた。

 二人は、趙にいた頃から、賢人と聞いていた。

 毛公と薛公は、会ってもらえないのではと思っていたほどの人であり、平原君が、賢人と思ったため、魏王に背いてまで、私は、趙を救った。

 しかし、二人との語らいを恥と言う、外面だけを気にする方のようだ。最早、平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。

 平原君は、それを聞くと、冠を脱いで、信陵君に謝罪した。

 平原君は、信陵君が、趙に居るからこそ、趙は秦に攻められていないことを理解しており、趙を去られては、大変と考えたのである。

 その話を聞いた、平原君の食客達の半数が、身分に関係なく、才を処遇する、信陵君の許に集まったと言われる。

 信陵君は、その後、十年程、趙に留まったまま、魏へと帰国しなかったのである。

 紀元前248年、魏は、信陵君がいないため、連年の様に秦に攻められ、安釐王は、窮して、信陵君に帰国するように手紙を出した。

 信陵君は、魏を疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して、食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したために、誰も諌められなかった。

 ある日、毛公と薛公が、信陵君の屋敷に訪れてきた。

 毛公と薛公は、信陵君に「貴方は、祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、貴方が、今があるのは、祖国あってこそで、魏の祖廟が、破壊されれば、天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君は、それを全て、聞く間も無く、魏へ向け出立した。

 翌年、安釐王及び、信陵君は、互いに涙して、兄弟の再会を果たした。

 信陵君は、魏の上将軍に就任し、諸国に知らせると、諸国は、一斉に魏へ援軍を送った。

 そして、前述の通り、信陵君は、魏・趙・韓・燕・楚の五カ国の軍を合従して、秦の蒙驁を破った。

 魏・趙は、無論のこと、他の国が、信陵君に指揮権を委ねたことを見ると、信陵君の手腕と名声に他国の信頼が、厚かったのである。

 そして、信陵君の率いる、五カ国の合従軍は、遂に函谷関に攻め寄せて、秦の兵を抑えた。

 その結果、信陵君の威名は、天下に知られた。

 信陵君の食客が、信陵君に献上した、兵法は、『魏公子兵法』と呼ばれた。

 秦は、函谷関にまで、攻め寄せられて、窮地に陥った。

 また、信陵君がいる限りは、魏を攻められないと考えた。

 そのため、秦は、信陵君に殺害された、魏の晋鄙将軍の許にいた、食客を集め、信陵君が、王位を奪おうとしているとの噂を流させた。

 その結果、魏の安釐王は、再度、信陵君を疑い、遠ざけるようになった。

 信陵君は、政治及び、軍事の表舞台に立つことはなく、鬱々として、酒浸りになると、紀元前244年に過度の飲酒のために死去した。