趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。

 趙括は、焦り、僅かに残った、健常な手勢を率い、秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られ、戦死する。

 趙括の死によって、残る趙兵、20万は、降伏した。

 秦軍は、大勝利したが、国内の総力を費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧がなく、秦に連行するだけの余裕がなかった。

 白起は、そのまま、戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。

 その様な状況で、死線を彷徨い、生き延びた、趙兵達を趙に帰せば、秦に恨みを抱いた、趙兵が、将来の禍根となると白起は、恐れた。

 白起は、少年兵240名ほどを除いて、趙兵を全て、生き埋めにし、処刑した。

 長平の戦いの趙の戦死者及び、被処刑者は、45万に上ると言われる。

 世界史上、空前の大虐殺である。

 後世、長平の戦いと呼ばれる、この戦いによって、趙の国力は、著しく、傾くことになる。

 更に、数十万の兵を生き埋めにされた、趙の民衆は、秦に深い、遺恨を抱いた。

 前述の通り、范雎は、魏の使者の須賈に対し、「魏王に魏斉の首を持って来いと伝えろ。でなければ、大梁を皆殺しにするぞ」と言っていた。

 須賈は、帰国すると、魏斉に対して、范雎の言葉を告げると、魏斉は、趙の平原君の元へと逃げた。

 昭襄王は、范雎を重用すると過去に魏斉によって、瀕死の目に遭わされた、范雎の仇を報いてやろうと思った。

 昭襄王は、魏斉を匿っていた、趙の平原君を秦に招き入れ、魏斉を渡すように脅迫した。

 しかし、平原君は、「私が、友を殺す男に見えますか」と即座に断った。

 次いで、昭襄王は、平原君を軟禁したまま、趙へ使いを出し、趙の孝成王を脅した。

 孝成王は、恐れて、魏斉を捕らえる兵を差し向けたが、魏斉は、趙の宰相の虞卿と共に夜の内に逃げ出していた。

 魏斉は、信陵君を頼るべく、魏へ戻ったが、信陵君が面会を躊躇したと聞くと、自刎した。

 信陵君は、魏斉の首を趙へ送り、趙の恵文王は、その首を秦に送った。

 その結果、平原君は、趙へと帰国することができた。

 魏において、魏斉に厠に捨てられ、小便を掛けられていた、范雎は、秦の宰相になったことによって、遂に復讐を果たしたのである。

 紀元前259年、昭襄王は、白起に命じ、再度、党を平定させた。

 白起は、軍を二手に分け、王齕に皮牢を落とさせ、司馬梗に太原を平定させた。

 范雎は、白起の功績が大きくなることを恐れて、「秦の兵は、戦いに疲れています。

 韓・趙が、地を割いて、和を講じるのを許し、秦の士卒を休息させてやりたいと思います」と進言した。

 昭襄王は、范雎の意見を聴き入ると、韓の垣雍と趙の六城を取って、両国と講和した。

 白起は、趙・韓との講和の命令を聞くと、范雎との間に溝が生じるようになった。

 翌年には、昭襄王は、五大夫の王陵に命じ、趙の邯鄲を攻めたが、落ちなかった。

 邯鄲の戦いである。

 この時、趙の人質だった、昭襄王の孫の子楚と曽孫の政の父子が、趙に殺されそうになった。 

 子楚と政は、呂不韋によって、命を救われ、父子は、二人共、秦王になり、秦王政こそが、後の始皇帝になる。

 昭襄王は、王陵に代わって、白起を将軍に起用しようとした。

 しかし、白起は、一年前の講和を根に持ち、断った。

 昭襄王、自身、白起に命令を下したが、白起は、引き受けず、更に、范雎が懇請しても、最後まで、辞退し、遂に病気と称した。