1804年5月、ナポレオンに批判的な将軍と目されていた、ベルナドットは、ナポレオンに招かれ、自分の味方になる様に説得された。

 ナポレオンは、ベルナドットに、共和政は、最早、再興不可能であり、革命の成果を守るには、ナポレオンのフランスの帝政化により、再構築を行うしかないと説得したのである。

 ベルナドットは、「選べる道は、一つしかありませんでした。

 私は、ナポレオンに好意を抱くことはできないが、忠実に協力すると約束しました。

 この言葉を守るつもりです」と、レカミエ婦人に語った。

 ナポレオンとの「和解」後の1804年5月14日、ベルナドットは、ハノーファー軍総司令官及び、総督に任命された。

 1804年5月19日、ナポレオンの皇帝即位の翌日、ベルナドットは、帝国元帥の称号を与えられた。

 6月17日、ベルナドットは、ハノーファー市に到着し、市民の歓迎を受けた。

 ライン方面軍時代のベルナドットの軍隊の規律の徹底的厳守は、ハノーファー市民の耳に届いていたのである。

 そして、ハノーファーにおいて、ベルナドットは、自主性、穏健さ、行政管理能力に関して、高い評判を得ることになった。

 ベルナドットは、着任の数週間以内に、ハノーファー市政府及び、ゲッティンゲン大学に公正な管理を行い、税制の公正化を行っている。

 1804年の秋に、フランスは、北ドイツの領邦から、3万ポンドを没収すると、国庫に納めた。

 ベルナドットは、ハノーファー市の財政負担を減らすため、その金額をハノーファーの駐留軍の軍資に回して貰うように、ナポレオンに願い出て、その許可を得ている。

 更に、1804年の冬殻1805年の春にかけて、組織的に穀物を輸入すると、飢饉の救済を行った。

 ベルナドットの高い評判は、他の同僚達と対照的であった。

 当時、フランス軍の将軍の多くは、占領地において、諸々の方法により、私腹を肥すのを常道としていたのである。

 ベルナドット元帥は、ハノーファーにおいて、長期間に及ぶ、独立の軍の指揮権と軍政・民政両面の管理を経験した。

 ナポレオンは、自分に批判的な、ベルナドットを冷遇せず、その才能を発揮させることになった。

 ベルナドット元帥は、1806年11月6日、プロイセン軍を追撃すると、ミュラ元帥及び、スールト元帥と共に、リューベックの戦いに勝利した。

 戦闘終了後、リューベックの街は、フランス軍の大規模な暴行、略奪の対象となった。

 ベルナドットは、自身の兵を押さえ、略奪者は、処罰する旨を通告し、市当局から感謝され、六頭の馬を贈与された

 ベルナドットは、リューベックの戦いにおいて、プロイセン軍の援軍、スウェーデン兵、1千5百人を捕虜とした。

 ベルナドットは、スウェーデン人の捕虜を寛大に扱うと、母国に帰還させるよう命じた。

 スウェーデン軍指揮官、グスタフ・フレドリク・メルネル伯爵は、ベルナドット元帥の宿舎に同宿し、歓待した。

 ベルナドット元帥は、その際、スカンジナビア半島の情勢に興味を示したと言われる。

 スウェーデンの軍人達は、感銘を受け、母国に帰還後に、ベルナドッ元帥が、公平公正にリューベックの治安維持に取り組んだかを周囲に告げて回った。