「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。

 この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。

 しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱を考えれば、それでも足りません」と贖罪を請うた。

 その廉頗に対して、藺相如は、「何を仰せられます、廉頗将軍が、居てこその趙国です」と快く許した。

 廉頗は、更に心打たれ、「貴方にならば、この首を刎ねられても悔いはござらぬ」と誓い、藺相如は、「私も将軍のためであるならば、喜んでこの首を差し出しましょう」と誓った。

 二人は、互いのために頸(首)を刎ねられても、悔いはないとする誓いを結んだのである。

 「刎頸の交わり」「刎頸の友」の故事の由来である。

 秦は、藺相如と廉頗が、健在中は、趙を攻めなかった。

 両名は、政治と軍事の真の意味で、国家という車の両輪であり、その才能と絆の強固さに、秦は、趙に手出しが出来なかった。

 趙の恵文王は、基本的には、秦に従って、斉などを攻めていたが、斉から、送られてきた、蘇秦の弟、蘇厲の言に従って、秦に背くようになるのである。

 秦の恵文王の時代、楚の懐王が、張儀に欺かれ、秦に幽閉されたまま、死去したために、秦と楚の関係は、悪化していた。

 秦が、伊闕の戦いにて、大勝を得て以来、楚の頃襄王は、秦の強大さを畏れ、秦に改めて、講和を求めた。

 紀元前292年、楚の頃襄王は、使者を秦国に派遣して、秦の王女を娶らせ、秦楚両国の講和を結ばせた。

 以降、秦と楚の両国は、融和な関係を維持してきた。

 紀元前285年には、秦の昭襄王及び、楚の頃襄王、懐王の息子は、宛の地にて、会見し、両国の平和を誓った。

 紀元前283年に、昭襄王と頃襄王は、楚の鄢城と秦の穣城において、会見した。

 紀元前281年、楚の頃襄王は、弱い弓と細い弓で、飛んでいる、雁を射る人を召抱えた。

 その人は、楚の頃襄王に自分の射る、雁は小さい物として、王が、射止めるべきものは、諸侯であると提言した。

 楚の領土は、四方に五千里、武装兵は、百万人の万乗の国と呼ばれ、楚は秦を討つことで覇者になれるとした。

 楚の頃襄王は、父の懐王が、秦に幽閉されたまま、死去したとの屈辱を思い出し、秦と断交することを決定した。

 また、楚の頃襄王は、各国に使者を派遣し、合従の盟約を締結し、秦を攻撃しようとした。

 秦の昭襄王は、その動きを察知し、楚に出兵することを決定した。

 紀元前280年、秦の将軍、司馬錯は、蜀兵を集結すると、隴西郡より出兵し、楚の黔中郡の地を奪った。

 楚の頃襄王は、上庸と漢江の北の土地を秦に割譲したのである。

 紀元前279年、秦の昭襄王は、全力を以て、対楚戦争を行う為に、趙の恵文王と澠池で、会見すると、秦と趙の両国は、一時休戦した。

 その当時の楚の国内政治は、腐敗していた。

 楚の頃襄王は、国政を顧みず、大臣は傲り、嫉妬し合い、功を争った。

 佞臣が政権を掌握し、賢良な忠臣は、排斥を受けた。

 その結果、国内の民心が離れ、都市は、年々。荒廃した。

 秦の白起将軍は、秦と楚の両国の形勢を分析し、直接、楚の中枢を陥す、策略を採用した。

 紀元前279年、白起は、数万の軍を率いて、漢江に沿って東下し、沿岸の主要拠点を奪った。

 白起は、秦軍に橋梁を排除して、船を焼き払い、帰路を断った。

 決死の戦いの覚悟である。

 楚軍は、本土での戦いであり、兵は、自分の家族を思い、戦意が低かった。