1803年、スウェーデン王国は、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリ王国と共に、第三次対仏大同盟に参加した。
1805年のアウステルリッツの戦いにより、オーストリアは、対仏大同盟から、脱落したが、スウェーデン、イギリス、ロシアは、同盟を維持していた。
1806年、プロイセン王国、ザクセン王国を加えた、第四次対仏大同盟が、結成される。
しかし、第四次対仏大同盟は、イエナ・アウエルシュタットの戦い、アイラウの戦い、フリートラントの戦いに敗北し、ナポレオンとティルジット条約を締結し、プロイセン、ロシアは、対仏大同盟から、脱落した。
ナポレオンは、ベルリン勅令、即ち、大陸封鎖令を発したが、スウェーデン国王、グスタフ4世アドルフは、大陸封鎖令の参加を拒否した。
ナポレオンは、ティルジット条約において、ロシア帝国のフィンランド獲得を容認する。
その代償は、ロシア皇帝、アレクサンドル1世に、スウェーデン国王、グスタフ4世に、大陸封鎖令への参加の圧力を加えることであった。
グスタフ4世は、イギリスとの同盟を画策したが、失敗し、イギリスは、デンマークと戦端を開いた。
イギリスとデンマークの戦争が、始まると、ロシア皇帝は、イギリスに宣戦布告する。
イギリスは、一度は、拒否した、グスタフ4世との同盟を締結したが、スウェーデンには、得る物が無かった。
ナポレオンは、スウェーデン王国の対外領土の西ポンメルンを占領し、アレクサンドル1世は、グスタフ4世にナポレオンとの和解を提案した。
しかし、グスタフ4世は、和解を拒否したため、アレクサンドル1世は、フィンランド獲得の口実を得た。
1808年2月21日、アレクサンドル1世は、8万人のロシアの軍勢をフィンランドに侵攻させた。
第二次ロシア・スウェーデン戦争の始まりである。
フランス、デンマークは、ロシアを支援するため、スウェーデンに宣戦布告した。
フィンランドには、1万人のスウェーデン軍がいたが、戦わずに降伏した。
ナポレオンは、ベルナドット元帥をスウェーデンに侵攻させた。
ベルナドットは、ナポレオンの1796年のイタリア遠征以来、互いに反感を抱いており、二人の関係は、悪かった。
ベルナドットは、1798年、ナポレオンの元恋人、デジレ・クラリーと結婚する。
ベルナドットは、ナポレオンに批判的態度を続け、ブリュメール18日のクーデターでは、ナポレオンには、敵対をしなかったが、協力はしていない。
ナポレオンは、クーデターを支持しなかった、国内の有力者を排除せず、ベルナドットは、1801年1月24日、国務院議員となる。
更に、4月18日には、西部方面軍総司令官に任命された。
ベルナドットは、ナポレオンへの批判姿勢を崩さなかったため、ナポレオンに対する、様々な陰謀事件の嫌疑を掛けられた。
反ナポレオン勢力は、ベルナドットに期待したが、ベルナドットは、ナポレオンの生命に関わる、陰謀には、常に反対した。
ベルナドットは、法律の範囲内で、ナポレオンの専制支配を食い止めようとした。
ナポレオンに批判的な軍人、モローとベルナドットは、最早、共和政の再興は、不可能と考え、モローは、王党派となり、アメリカに追放された。
ベルナドットは、ブルボン朝再興よりは、ナポレオンの方が、「マシ」と考え、立憲政治を望んでいたのである。