藺相如は、終始、上述の様にして、機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで、秦は、趙を格下扱いに出来なかった。

 藺相如は、趙へ戻る際も、警戒を怠らなかったので、秦は、手出しできず、恵文王達は、無事帰国できた。

 藺相如は、秦に外交の対等の儀礼を守らせ、趙王の身を守り、更に趙の面子を守ることに成功したのである。

 当時の趙国には、白起、王翦、李牧と並ぶ、戦国四大名将の一人、廉頗がいた。

 廉頗は、紀元前283年、将軍に任命されると、斉に侵攻し、昔陽を奪った。

 更に翌年の紀元前282年、斉を討ち、陽晋を陥落させた。

 廉頗は、昔陽、陽晋を得た、功績によって、上卿に任ぜられ、その勇猛さによって、中華全土にその名が、轟いた。

 一方、藺相如は、秦との外交の功績によって、上卿に任命された。

 しかし、歴戦の勇将、廉頗は、藺相如の異例の出世を妬み、藺相如への不満を漏らした。

 廉頗は、趙の将に就任後、野戦攻城に大功がある。

 藺相如は、舌先のみで、廉頗の上に成り、元々、卑しい身分である。

 廉頗は、藺相如の下に居ることを我慢できず、藺相如を見たら、必ず辱めると言い続けた。

 廉頗は、叩き上げの軍人で、常に戦場で、生死を晒しながら、秦の侵攻を防ぎ続けて来た、

 実績と自負のあるため、元々、宦官の食客であり、武勲も無く、弁舌のみで、自分と同格に成り上がったことが気に入らなかったのである。

 廉頗は、実直な性格であるため、藺相如を辱めることを、実際に行うであろうことは想像に難くなかった。

 藺相如は、廉頗の嫉妬を知って、廉頗と会わぬように病気と称して、屋敷に篭り、宮中に参内する時は、廉頗が、居ない日を見計らうようにしていた。

 ある日、藺相如は、車を使い、外出したが、道で、廉頗と偶然、出会いそうになり、即座に脇に隠れた。

 その夜、藺相如の従者一同から、折り入って、話があると申し入れられた。

 藺相如の従者は、「我々が、親戚縁者の下を離れて、貴方に仕えているのは、貴方の高義を慕っているためである。

 しかし、今日、主人が、廉頗将軍から、隠れたのは、匹夫でさえ、恥じ入るような行いであるのに、全く、恥じるそぶりもない。

 最早、仕えることは出来ない」と藺相如に告げた。

 従者達は、最早、廉頗に我慢できなかったのである。

 藺相如は、「お前達、廉頗将軍は、秦王より恐ろしいか」と聞き、従者達は、「廉頗将軍は、秦王に及ばないでしょう」と言った。

 藺相如は、「私は、その秦王を叱りつけて、居並ぶ、秦の群臣たちを辱めたのだ。

 私自身は、大した男ではないが、廉頗将軍を恐れる訳はない。

 秦が、趙を攻め切れていないのは、私と廉頗将軍が、健在であるからこそである。

 今、私と廉頗将軍が、戦えば、両虎相討つようにどちらも生きるということはない。

 私が、廉頗将軍から、逃げ隠れるのは、国家の危急を個人の諍いよりも優先するからだ」と答えた。

 即ち、趙を秦の脅威から守るため、自分と廉頗の仲が、決定的に悪くなるのを避けていた。

 例え、恥と思い思われるようなことがあってもである。

 藺相如の従者達は、主人の深い思慮と器量に大いに感じ入って、頭を下げた。

 藺相如が、廉頗将軍から、逃げ隠れている理由は、宮中において、噂となり、その話を聞いた、廉頗は、心打たれて、自身を恥じて、藺相如の屋敷を訪れた。

 そして、藺相如の前に肌脱ぎして座し、背負っていた、茨の鞭を差し出して、次の様に述べた。