藺相如は、胆力と知恵だけを武器にして、強国の秦に対し、一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子を保った、まさしく、「完璧」な対処と言える。
なお、中国語では、「完璧帰趙」と言われる。
「完璧」は、英語では、「Perfect」と翻訳されているが、日本における、「完璧」の言葉は、藺相如の活躍を由来としているのである。
翌年の紀元前279年、昭襄王は、趙の恵文王に黽池にて、両国の友好を祝おうと招いた。
しかし、黽池は、秦の国境の内部にあり、更に、趙との国境からは、遠く離れているため、万一の場合、軍を送って、救援することが出来ない。
しかし、祝宴とあっては、恵文王は、大量の兵を連れて行く訳にもいかないのである。
秦は、上述の「和氏の璧」の件において、現れているように信用できない国であり、度々、趙へと侵攻をして、城を奪っていた。
恵文王は、秦の昭襄王との祝いの席では、威を持って、屈辱を味わわせられるだけでなく、無事に帰られるかどうかさえ、危ぶまれるところであり、恵文王は、恐れて行きたくないと言った。
恵文王の家臣の廉頗等は、「行かなければ、趙は弱く卑屈だと思われ、秦を更に増長させ、諸侯にも侮れられます」と諌め、藺相如はこれに同行した。
恵文王の一行は、趙を離れて、黽池へ向かった。
その際、三十日で、帰国しなければ、太子を王として、敵討ちをすると、確認するほどの覚悟が必要であり、相当の懸念があったのである。
そして、黽池において、祝宴が開かれたが、その席で、秦の昭襄王は、恵文王に対して、「趙王殿は、音楽が、お好きだと聞いている。両国の友好を祝し、瑟を弾いて頂きたい」と三度、要望した。
恵文王は、やむを得ず、一曲、引いたが、その直後、昭襄王は、記録官に命じて、国史に「秦王、趙王に瑟を弾かせた」と記載させた。
藺相如は、秦の昭襄王は、趙を臣下どころか、楽士、即ち、宴会等で音楽を弾く使用人の扱いをして、見下そうとしていると見た。
藺相如は、昭襄王に歩み寄り、缻を差し出して、「秦では、宴席で缻を叩き、歌うと聞いています。両国の友好を祝し、叩いて頂きたい」と言った。
確かに秦には、そのような風習があった。
しかし、中原諸国では、下品とされる行為であり、また、王に命じるとは、無礼であると昭襄王は、憤った。
しかし、藺相如は、全く、動じず、「私と秦王様との距離は、僅か五歩。私の首を撥ね、その血を秦王様に注ぎましょうか」と、暗に「断るならば、ここで、秦王を道連れに死ぬ」と脅した。
昭襄王の左右にいた、護衛は、無礼者を切り捨てようとした。
しかし、藺相如が、一度、凄むと動けなくなった。
昭襄王は、藺相如の気迫の凄まじさにやむを得ず、缻を1回叩いた。
藺相如は、即座に記録官に命じ、国史に『趙王、秦王に缻を叩かせた』と記載させ、「秦王様のおかげで祝宴は、盛り上がりました」と喜んだ。
昭襄王の非礼に対して、藺相如は、同様の非礼を行うことで、趙の面子を保ったのである。
秦の家臣が、恵文王に「我が王の長寿を祝し、貴国の十五城を我が王に献上してはいかが」と言った。
藺相如は、即座に「貴国こそ、我が王の長寿を祝し、咸陽を献上してはいかが」と言い返した。
十五城に対して、一城とはいえ、咸陽は、秦の都である。
当然であるが、無理難題であり、言い出した、秦の臣は黙ってしまった。