統領政府以来、ナポレオンの独裁体制を支えたのは、タレーランの外交能力、そして、フーシェの情報収集能力であった。

 ナポレオン、タレーラン、フーシェのトロイカ体制が、ナポレオン政権を支えていたのである。

 しかし、タレーランは、ナポレオンを裏切って、フーシェは、解任されたため、三人のトロイカ体制は、完全に崩壊した。

 ナポレオンは、フーシェが、警察大臣解任と同時に、極秘書類を秘密裡に保管した際に、ベルティエ、レアル、デュポワをフーシェの許に派遣して、極秘書類の返却を迫ったが、フーシェは、既に、焼却したと答えたため、三人は、引き上げた。

 しかし、ナポレオンの激怒に危険を感じ、サン・クルーの宮殿に赴き、ナポレオンに面会を求めた。

 フーシェは、ナポレオンとの会見の際、極秘書類は、焼却したと改めて、返答したが、ナポレオンは、許さなかった。

 フーシェは、ナポレオンに処刑されることを恐れたため、アメリカに亡命しようとしたが、船酔いによって、断念した。

 そして、ナポレオンの妹、エリザに救いを求め、ナポレオンに極秘書類の返却を申し出た。

 ナポレオンは、最終的に、フーシェを許したが、権力の中枢には、復帰させなかった。

 しかし、フーシェの警察大臣解任を、当然と考えていたのは、ナポレオンのみであった。

 ヨーロッパ全土が、戦争に疲弊していたため、イギリスとの和平を望んでいた。

 フーシェの和平交渉継続は、ヨーロッパ全土の人々に支持されていたのである。

 ナポレオンの大陸封鎖令は、イギリスとの貿易によって、経済を支えていた、ホラント王国及び、バルト海沿岸のハンザ同盟諸国、スウェーデン等にとって、死活問題であり、大陸封鎖令を破って、密貿易を行うのは、必然的帰結であった。

 ナポレオンの兄弟さえ、自国民の利益を守るために、ナポレオンの命令に服していなかった。

 1810年5月20日、ナポレオンは、弟のホラント国王、ルイに対して、書簡を送った。

 ナポレオンは、ルイが、自国民の密貿易を黙認することを非難した。

 同時に、ホラントの国民にとって、ルイは、フランス人でしかなく、ホラント国民が、見ているのは、実際は、ナポレオン、即ち、ルイは、傀儡でしかないと暗示したのである。

 6月30日、ナポレオンは、大陸封鎖令を破って、密貿易を黙認する、弟のルイに対し、我慢できずに、遂に、軍隊を派遣した。

 ルイは、退位すると、次男のナポレオン・ルイを、ローデウェイク2世として、ホラント国王にした。

 ルイは、オーストリア領のボスニアに亡命した。

 ウーディノ元帥は、2万人の軍を率いて、ホラント王国に侵入した。

 7月9月、ナポレオンは、ホラント王国をフランス帝国に併合すると、アムステルダムを、帝国第三位の都市にすると宣言した。

 そして、ナポレオンは、フランソワ・ルブランを、総督に任命し、アムステルダムに駐在させたのである。

 なお、同年、ルイは、ジョセフィーヌの娘、オルタンスと離婚している。

 二人の間には、ナポレオン・シャルル、ナポレオン・ルイ、ルイ・ナポレオンの三人の息子に恵まれた。

 しかし、ナポレオン・シャルルは、早世している。

 オルタンスは、離婚当時、二歳の三男、ルイ・ナポレオンを引き取った。

 ルイ・ナポレオンこそ、後のナポレオン3世である。