紀元前285年、昭襄王は、蒙武を登用し、斉に侵攻した。

 また、蜀侯の綰に謀反に疑惑が、持ち上がったため、綰を誅殺した。

 以降、蜀には、侯を置かず、蜀郡郡守を置くのみとした。

 紀元前284年、昭襄王は、都尉の斯離に命じて、韓・魏・趙及び、燕と同盟を締結すると、斉を討ち、済水の西で斉を破った。

 済西の戦いである。

 前述の通り、燕・韓・魏・趙・秦の五カ国連合軍を率いたのが、燕の名将、楽毅である。

 済西の戦いの際に、昭襄王は、魏王と宜陽で、韓王と新城にて、会見した。

 紀元前283年、昭襄王は、魏に侵攻して、魏の安城を取り、大梁に赴いたが、燕と趙が、魏を援けたために、秦軍は、兵を引き上げた。

 また、同年、再度、魏冄の宰相職を免じた。

 紀元前282年、昭襄王は、趙の2城を陥落させた。

 その際に、昭襄王は、魏王と新明邑、韓王と新城にて、会見した。紀元前281年、昭襄王は、魏冄を再度、宰相に任じた。

 同年、昭襄王は、恩赦を行い、罪人を赦したが、移住先は、穣であった。

 穣は、魏冄の封地であり、魏冄の力は、増大の一途を辿ったのである。

 紀元前280年、昭襄王は、司馬錯に命じ、隴西から兵を出して、蜀に出て、楚を討った。

 黔中の戦いである。

 更に、昭襄王は、罪人を赦して、南陽に移した。

 同年、白起に命じて、趙に侵攻し、代と光狼城を取った。

 昭襄王の在位中に、魏冄は、度々、宰相を罷免された。

 しかし、その度に宰相に返り咲いており、権勢を誇った。

 同年、昭襄王は、趙の恵文王の「和氏の璧」を手に入れようとして、藺相如に防がれた。

 昭襄王は、璧と自国の十五城との交換を趙に提案した。

 「和氏の璧」が、天下に知られた、名宝とはいえ、十五城といえば、小国にも匹敵する程である。

 条件は良いが、相手は、常に侵略の機を狙っている、強国の秦である。

 条件の実態は、口約束で、宝物を要求しているだけの可能性が高い。

 恵文王は、単に宝物を渡せば、自身が、秦の属国と認めることを意味ずる。

 超と恵文王にとって、屈辱的であり、諸国に恥を晒すことになる。

 無論、和氏の壁を渡す気はないが、断れば、「十五条の条件を無下にした。無礼である」との侵攻の口実を秦に与えることになる。

 趙の恵文王は、群臣に計ったが、議論百出して、全く、纏まらず、更に交渉に使者として、秦に出向くのは、虎穴に入るようなことであるため、使者の任へ名乗り出る者はいなかった。

 恵文王は、苦悩したが、繆賢が、恵文王に自分の客人である、智勇兼備の藺相如を推挙した。

 繆賢は、恵文王に藺相如についての逸話を語った。

 ある時、繆賢は、罪を犯して、恵文王の怒りを買い、処罰を恐れ、燕へ亡命しようとした。

 食客の藺相如は、何故、燕へ逃れるのかと繆賢に尋ねた、繆賢は、以前に、燕王と会見し、その時、繆賢の手を握って、友人になりたと言った。

 繆賢は、その時の言葉を信じており、燕王が、自分を快く迎えてくれるだろうと答えた。

 藺相如は、繆賢に対して、間違いを指摘した。

 燕は、弱小国であり、比較すれば、趙は、強国である。

 燕王が、繆賢に友になりたいと願ったのは、繆賢、強国である趙の王様の寵愛を受けていればこそである。

 寵愛を失い、不興を買った、繆賢が、燕に行っても、燕王は、匿うどころか、捕らえて送り返すであろうと言った。