白起は、伊闕の戦勝の功によって、国尉となった。

 同年,白起は、韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用し、兵を率いて、黄河を渡ると、安邑の東側の乾河等の広大な領土を占領した。

 秦が、魏と韓を伊闕に勝利したことを聞くと、東周は、秦に攻められることを恐れたため、使者を派遣して、和議を講じるようになった。

 昭襄王は、白起を国尉に昇格させ、更に翌年に白起を大良造に昇格させた。

 そして、白起に再度、魏を討たせた。

 白起は、垣の地を取り、大小61の城を落とし、魏の国力を大きく、傾かせることに成功した。

 韓と魏は、秦に次々と領土を奪われて、講和を余儀なくされた。

 魏は、河東郡の四百里、韓は武遂の地の二百里を秦に割譲した。

 伊闕の戦い後、秦は、西周国に攻撃する機会を得た。

 西周の公子周最は、趙の宰相、李兌に使者を派遣した。

 使者は、李兌に対し、今、秦が、魏を破って、周を攻めようとしている。

 趙にとっては、勢力拡大の機会である。

 まず、趙は、秦が攻めようとしている、西周を守り、双方共に、魏を攻めないことにすべきえである。

 秦は、周を攻めても、領地は、手に入らず、暫くの後には、疲弊して、撤退する。

 秦は、まだ、魏とは講和を結んでいない。

 その時、秦は、周から軍を引けば、また、魏を攻めて、両国とも疲弊する。

 秦と魏が講和を結ぶならば、趙はその仲介役を果たし、両国間における、趙の勢力は重くなり、結果的に趙の勢力は、増大するはずと説いた。

 西周君は、周足を使者として、秦に派遣し、自身は、魏の昭王に援助を求めた。

 しかし、昭王は、上党郡の危急を理由に援助を拒んだ。

 最終的に、周最の思惑通りに、秦は、西周を攻略できなかった。

 その後、前述の通り、魏は、秦と和睦を結んだ。西周は、危機を脱し、紀元前256年までの間、その余命を保つことになった。

 紀元前292年、魏冄が、病のために宰相を辞めた。

 昭襄王は、客卿の燭寿を宰相とした。

 しかし、翌年、燭寿が、宰相を辞めたため、魏冄が、再び、宰相となった。

 その際、魏冄は、穣の地に封じられ、穣侯と号するようになる。

 同年、昭襄王は、左更である、司馬錯に命じ、魏を討たせて、魏の軹と鄧の地を取った。

 昭襄王は、弟の公子巿を宛に、同様に、公子悝鄧に、魏冄を陶に増封した。

 以降、魏冄は、陶侯とも号するようになる。

 紀元前290年、昭襄王は、引き続き魏を攻撃し続けた。

 魏は、河東の地、方四百里を献じて講和を求めたが、昭襄王は、受け入れず、魏冄は、魏の河内を攻略すると、60余の城を陥落させることに成功した。

 更に、翌年、昭襄王は、引き続き、魏に侵攻した。

 司馬錯及び、白起に命じて、垣・河雍・決橋を攻めて、その地を奪った。

 紀元前288年、昭襄王は、増強する国力を背景に、「西帝」を自称した。

 前述の通り、昭襄王は、魏冄を斉に派遣して、斉の湣王に東帝の帝号を贈った。

 しかし、斉が、帝号を王号に戻すと、昭襄王は、西帝を廃し、王号に復した。

 魏冄は、宰相を罷免されていたが、紀元前287年、昭襄王は、魏冄を再度、宰相に任じた。

 紀元前286年、昭襄王は、司馬錯に命じ、魏の河内に侵攻した。

 魏は、安邑を秦に献じたが、その際に、昭襄王は、河東の地に移住したいと望む、安邑の民を募集した。

 移住者に対し、褒美として、爵位を賜い、更に罪人を赦したのである。